戦争ミュージアム体験③姫路にもあった捕虜収容所
こんにちは😃
前回からの続きです。
姫路にはどのような感じで戦争捕虜たちがいたのでしょうか。
まずは第二次世界大戦までをみてみましょう。
日露戦争とロシア兵捕虜
1904年、戦闘で捕えられたロシア人の捕虜たちが姫路に護送されてきました。
8月に捕虜収容所が開設されて897名が収容されました。
1905年になると捕虜の数は激増し、全国で約7万2千人以上が収容されました。
姫路でも捕虜の数が増えるにつれて、捕虜収容所だけでは足りず、神社や寺院に収容されました。
捕虜は集団で外出を許可され、各収容所ごとに野外運動を行いました。
捕虜の中には河原で板切れなどを使って畑を作ろうとする者がいたと言われています。
第一次世界大戦とドイツ兵捕虜
1914年、捕虜たちは青島を出発。
対馬海峡から門司、宇品を経て、姫路に収容される捕虜たち約300人以上がやってきました。姫路に到着した捕虜は、停車場で検疫を受け、3つの寺にわかれて1915年9月までの10ヶ月間を姫路で過ごしました。
収容所に到着した捕虜たちにはきちんとした食事が供され、身なりを整えられるように衣服や、石けん、歯磨き粉などの雑貨が支給されました。
ビールやタバコまで買えるようになると、捕虜たちの士気は高まり、やがて軍歌や民謡まで聞こえるようになりました。
捕虜収容所の所長や旅団司令部、姫路市長など、収容所には連日要人があいさつに訪れたり、仏教の高僧がやってきて捕虜たちの健康を祈願したりしました。また収容所の囲いを取り巻いて群がる市民の姿もありました。
日本政府は、捕虜たちの健康に気を配っただけでなく、病気が持ち込まれることにも警戒していたため、捕虜たちは徹底的に診察され、予防接種を受けさせました。
捕虜たちの行動は比較的自由で、たびたび収容所から市内各所へ遠足で出かけたりもしています。
援助団体や組織から、本や雑誌などの寄付もありました。
なかにはドイツ語新聞もあり捕虜たちは、ヨーロッパの戦場についての情報を得ることができました。
捕虜たちの手記などによると、当時の日本政府の捕虜の扱いはとても良好だったようです。
その後、戦争が長期化するにつれて日本政府は捕虜の待遇改善のため新たな収容所を陸軍演習場のある青野原台地(現小野市・加西市)に開設しました。
多いときには500名弱の捕虜が暮らしていました。
次回のnoteでは、第二次世界大戦以降の戦争捕虜たちは姫路でどのようだったかをまとめます!
執筆者、ゆこりん