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今日は憲法記念日。決して手放さないでおこう平和な日本!

先日話題の映画「ゴジラー1.0」を見てきました。

さすがアカデミー賞「視覚効果賞」を受賞した作品。

最初のシーンからど迫力でぶるぶる震えてしまいました。🫨
映画館で観るのがおすすめ!いっそげー=3=3



そしてなんといってもゴジラの原点は水爆実験と戦争です。
戦争と平和についてもしっかり考えられる内容になっていました。


Story
第二次世界大戦末期、大戸島の守備隊基地に主人公の敷島浩一少尉の零戦が不時着しました。敷島は特攻攻撃を命じられたものの、途中機体が故障したので大戸島の飛行場に不時着したのです。
しかし、整備兵の橘たちが点検しても故障は見つかりません。
敷島は怖じけづいて逃げ出したのではと疑われます。

そこへ、恐竜のような生物が島を襲います。
その生物は島の伝説の「呉爾羅(ゴジラ)」でした。
橘は敷島に零戦に装填された20ミリ砲でゴジラを撃つように頼みますが、敷島は恐怖のため何もできませんでした。
その結果整備兵は橘以外全員死んでしまいます。橘は整備兵の死は敷島の責任だと激しく責めます。

戦後東京へ帰ってきた敷島が見たのは焼けて跡形もなくなった自宅でした。
隣家の主婦澄子から両親の死を知らされます。澄子は、軍人がしっかりしなかったから自分の子どもたちは死んでしまったと敷島を激しくなじります。

天涯孤独になった敷島は生き残った自責の念に苦しめられますが、そんな時赤ん坊の明子をつれた典子と出会い、共同生活を始めます。
典子も空襲で親を失い、母親を亡くした明子の面倒をみていたのでした。

敷島は生活のため戦時中に米軍がしかけた機雷を除去する仕事を始めます。
命の危険のある仕事でしたが、給料はよくようやく家も建て直して生活も安定します。
しかし、敷島は悪夢にうなされ自分だけが幸せになれないと思い詰め、典子や明子とも正式の家族になれないでいました。

そのころ、1946年、南太平洋ビキニ環礁では米軍による核実験「クロスワード作戦」が行われました。
日本軍から接収した戦艦「長門」もこの実験によって沈没しました。
この時近海にいたゴジラも被曝してしまったのです。巨大化し放射能をまき散らすようになったゴジラは日本へと近づいてくるのでした。

敷島の乗った機雷回収船「新生丸」はゴジラの足止めも命じられます。
そして「新生丸」の前に巨大なゴジラがあらわれます。
それは大戸島であったゴジラでした。
船の機銃や回収した機雷で応戦しますが歯がたちません。
そこへ重巡洋艦「高雄」がきて助けてくれたのですが、怒り狂ったゴジラは熱線を出し木っ端微塵にします。

またも「高雄」の乗組員は犠牲になり自身は助かった敷島。
東京の自宅に帰ってきますが、特攻から逃げたことや整備兵を見殺しにしたことや巨大化したゴジラに襲われた恐怖からの精神的トラウマに激しく苦しみます。


「自分は生きていてはいけない人間だ」と苦しむ敷島に対して典子は「自分の両親は火に焼かれながら自分に生きろと言った。生き残った人間はきちんと生きていくべきだ。」と諭します。
ようやく敷島も典子と明子とともに生きていっていいのではと思います。

しかし……

そこへゴジラが東京に上陸。
銀座で働き始めた典子はゴジラに襲われ、敷島が助けにいったにもかかわらず目の前で死んでしまいます。
またも、やはり自分は生きていてはいけない、幸せになってはいけないと思う敷島。


そこへゴジラを相模湾の深海に沈めて息の根を止める作戦が実行されます。
ゴジラを相模湾に誘導するために必要な戦闘機のパイロットとして、敷島はゴジラに立ち向かうことになります。

戦闘機の整備のために大戸島守備隊の生き残りの整備兵、橘を見つけ出し機体の整備を頼みます。
そしてある作戦を心に秘めて出撃するのでした・・・


 特攻を命じられたのに逃げてしまい、ゴジラの攻撃もできずに味方を見殺しにしてしまったトラウマに苦しむ敷島のつらさがひしひしと伝わってきます。


以前兄を特攻でなくした遺族の話を聞きました。
「特攻隊の中には途中の島に不時着して助かったパイロットもいたらしい。
自分の兄もそうして助かってくれたらよかったのに。」と言われていました。
家族にとってはどんな形でも生きて帰ってほしかったでしょう。

その特攻でなくなったお兄様は、出撃の時、機体のトラブルで一回では離陸できず、トラブルを直してから飛び立ったそうです。
最初のトラブルの時、機体不良を理由に出撃をやめることはできたでしょうが、やめずに出撃して亡くなりました。
もしやめていたら、その直後の空襲で戦闘機が破壊されてしまったので特攻攻撃は不可能になり生きて帰ることができたでしょう。
そして生き残った戦友たちは、戦死者の分も働いて、戦後日本の復興。
高度成長に力を尽くし、日本を平和で豊かな国にしてくれました。戦後には無数の敷島がいたのです。
彼らは戦争のトラウマに苦しみながら、生き残った意味を問い直し戦後の日々を生きていったのでしょう。


このように多くの犠牲をともなって手に入れた平和な日本。
決して手放すことがないようこれからも努力していくことが戦死した人々に報いることだと思います。


執筆者、ゆこりん

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