『80 min.』 上
『玲ちゃん、いつの間に不良になっちゃったの?』
私の隣には、慣れた所作で煙草を吸う彼。
その存在を私はまだ信じられていない。
だって彼は先月、
交通事故で亡くなったのだから。
︎ ✧
『大園先輩はまだ残るんですか?』
「うん、もう少しだけ」
『そう…ですか。お先に失礼します』
「お疲れ様」
最後の後輩を見送るとフロアには私一人。
今日の分の仕事は終わっているけれど
「頑張らないと…」
自分を鼓舞し作業に戻る。
そう、頑張らないと
︎ ✧
「ただいま」
私の言葉は静かな部屋に木霊しただけ。
返事はもちろんない。
晩御飯を作り机に運ぶ。広げた料理は多すぎて。
「また2人分、作っちゃった」
今日の残り物も明日のお弁当になるのだろう。
作ったばっかりで温かいはずなのに、なんだか美味しくなかった。
明日の準備を終え、暗く静かなリビングに1人佇む。漂う部屋の香りから煙草の匂いが薄くなっている。
―――「こうして思い出までも…
ダメだ、またネガティブになっている。
彼が褒めてくれた私じゃないと…
「頑張らないと…」
呪文を唱え、今日も乗り切った。
頑張らないと
︎ ✧
『大園さん、ちょっといい?』
仕事中、小林先輩から声をかけられる。
彼と同期でこの部署のエース的存在。皆から頼りにされていて、私の憧れ。
「は、はい!」
『はい、これコーヒー』
「あ、ありがとうございます」
差し出されたコーヒーを手に取り、休憩スペースへと向かった。
『最近どう?』
「はい、頑張っています」
『そうじゃなくて』
「もちろん、勉強もして」
『日向野くんのことよ』
「………」
『そろそろ受け入れられた?』
久しぶりに彼の名前を聞いた。「はい」と答えたがその戸惑いが返事をするまでの妙な間を生んでしまった。
『嘘ね、私にはちゃんと話して』
それでも先輩は優しく私に問いかけてくれる。
「…すいません」
でも私には、その優しさが上手に受け取れなかった。まだ温かいコーヒーを机に置くとその場から逃げ出してしまった。
会社からさえも。
『玲ちゃん…』
『あれ、大園は?』
『体調が悪かったようなので帰らせました』
『わかった』
小林は上司へ嘘の報告をすると自分の席に戻る。
『おせっかい、だったかな』
小林は1つ増えたコーヒーを減らすべく、自分の仕事に戻った。
✧
部屋の鍵を開ける。「ただいま」の挨拶はしない。着替えないままベッドへ飛び込む。
「日向野さん…」
彼の名前を呼ぶ。返事が返ってくるわけでもないのに。ふと、視界の端に未開封の煙草が。彼の吸っていた煙草。
煙草を手に持ち、眼を瞑る。
思い出してしまう、彼との思い出を。
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新入社員の私の教育係としてついてくれたのが
日向野 〇〇さん。
第一印象は、いいものではなかった。
「今日からお世話になります、大園玲です。よろしくお願いします」
「新人の子?僕は日向野、よろしくね」
「はい!」
「元気だね~」
「それはもちろ…」
「疲れない?」
「…え?」
「そんな気を張らないでいいからさ。ゆるーくやっていこ」
そう言いながら、ヘラヘラと笑う。
よく見れば、髪もボサボサで服には所々、シワが出来ていた。
正直言って、「大丈夫かな」と思ってしまった。
その予感は、的中することになる。
︎ ✧
「日向野先輩、頼まれていた…って」
仕事の進捗を日向野さんに確認してもらいに訪ねたはいいものの、肝心の日向野さんは机に突っ伏しながら寝ていた。
「日向野先輩!起きてください!」
「んぁ?大園ちゃん?早いねー」
のんびりとした口調で受け取る。
「めがねめがね…」
探しものは頭についているというのに、机の上を探す日向野さん。
「頭についてます」
「え?ホントだ、ありがとね」
丸メガネをつけ、資料に目を通す。
「うん、バッチリだね。おつかれー」
「は、はい」
この対応は、一回限りではなかった。
次も、そのまた次も、声をかけに行くときいつも日向野さんは昼寝をしていた。
しかも、その度に眠りが深くなっている気がした。
いつ見せても、「バッチリだねー」としか答えない。そんな先輩に不安感と、「自分はできるんだ」という謎の自信を身に着けてしまった私。
ある日、私は先輩の確認無しで資料を提出してしまった。
それが最悪の結果を招くとは知らずに。
『なんだ、この資料は!?』
私は今、会議室で上司に怒られていた。
原因は先程、私が提出した資料のせい。
「申し訳ございません!」
必死に頭を下げる。
資料にはいくつもの修正点と誤字、脱字が見つかったらしい。そのせいで、次の会議が遅れ結果的に多くの人を巻き込んでしまう事件へと発達してしまった。
私は、情けない気持ちと恥ずかしい気持ちで、今にも泣き出しそうだった。
そこに現れたのが、日向野さんだった。
部長からの説教を受けた後、先輩と私は屋上へと向かった。
「ひ、日向野先輩」
「ふぅ~、あんなに怒らなくてもいいのになー」
「日向野先輩!」
「どうかした?」
「私のせいで、その、先輩が」
自分の身勝手な行いで日向野さんを困らせてしまった。情けなさと未熟さでまた泣き出しそうになった。
「僕のモットーを教えるね」
私の謝罪の言葉を聞く前に、日向野さんは話しだした。
「他人に甘く、自分にも甘く」
「は、はぁ」
「まぁ、このせいで大園ちゃんには迷惑かけちゃったんだけどね」
私が悪いのに「ごめんね」と謝りだすので慌てて訂正する。その後は、2人で謝り合戦を続けた。
最後には
「あの資料、そこまで酷い内容じゃなかったよ。あれは部長がイライラしてただけだから、自分を責めないでね。自分には甘く!」
と、フォローまでしてくれた。
後から知ったことだけど、日向野さんは今までの資料から私の傾向を調べて教育プログラムを考えてくれていた。
そんな彼の優しさを知ってから、私は着実に惹かれていった。
自分の気持ちに気づいた日から、私は彼に猛アピールをした。
最初はいつものように飄々と躱されたが、思いが伝わったのか私の気持ちに少しずつ応えてくれるようになった。
付き合い始め、同棲するまでにそう時間はかからなかった。
幸せってこんな事なんだろう。私の気持ちは完全に浮ついていた。
だから、知らなかった
その幸せに終わりが近づいていることに。
︎ ✧
付き合ってから知ったこと、彼は愛煙家だった。
でも、嗜む程度で決まった時間にいつもベランダで吸っていた。
私も煙草に嫌悪感は抱いていなかった。寧ろ、一緒にベランダに出て煙草を嗜む彼の隣でお話をすることが毎日の楽しみだった。
その日、彼は珍しく浮足立っていた。
休日だというのに、家の中でも落ち着かない様子で部屋の中をウロウロしていた。
「何かあったの?」と尋ねるが「ちょ、ちょっとねー」とはぐらかされた。
そして、夕飯の時間。
「ちょっと煙草が無くなったから、買ってくるよ」
「え、今から?」
「すぐ戻るから、行ってきます!」
必要最低限の荷物を持つと、見送りの言葉も聞かず足早に家を出る。
「…ん?」
リビングの机の上に、未開封の煙草を見つけた。
「もう…」
私はすぐに彼に電話をかける。
しかし、着信音は部屋の中から聞こえた。
「スマホも忘れてる…」
いつもと様子の違う彼を心配しながらも、「スマホを忘れたのだから直ぐに帰って来るだろう」と特に心配もせずソファに腰掛け彼の帰りを待った。
彼が二度とこの部屋に返ってくるとは知らずに。
交通事故だった。
道路に飛び出した子供を助けるために彼が犠牲になった。
フィクションのような話だ。
彼の亡骸を見てもなお、「これはフィクションだ」と思った。だけど、そんな思いとは裏腹に、いつまでも涙が止まらなかった。
彼の葬式を終え、しばらく実家で過ごした後、2人の家へ帰った。
「ただいま」の返事が返ってこない
1人になった部屋で、あのときの煙草を見た時
ノンフィクションだと、実感した。
そして、部屋で1人、また涙を流した。
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目を開けると、枕が少し濡れていた。窓の外はいつの間にか真っ暗に。
ふらふらと部屋の中を歩き出す。無意識のうちに足はベランダへ。手にはいつの間にか、煙草とライターを握っていた。
封を開け綺麗に並んだ内の一本を手に取る。
彼の真似をして、口に咥え火を点ける。うまく火が灯らない。吸い込みながら火を点けてみると、大量の煙が体へ侵入してくる。
苦しむ私。そのせいか幻聴が聞こえた気がした。
『玲ちゃん、いつの間に不良になっちゃったの?』
残った煙を吐き出そうと咳き込む私の隣で、いつものように飄々と笑う彼。
その体は、彼が咥えている煙草の煙のように端々がゆらゆらと揺らめいている。
髪の毛はボサボサ、丸メガネの奥の眼は孤を描くように笑っている。
そんな見慣れた彼が隣にいた。
「・・・・・」
『なに?僕の顔をまじまじと見つめて』
先端が赤く光る。いつの間にか私の口から煙草がなくなっていた。
「せ、先輩?」
『懐かしい呼び方だね』
このやり取りだけで懐かしさが込み上げてくる。
『いつもみたいに読んでほしいな、玲ちゃん』
「…〇〇くん」
名前を呼ぶと嬉しそうに『はーい』と返事をする。
「で、でも〇〇くんは…なんで?」
『うーん、たぶん未練があったから、かな』
「未練?」
『この煙草、吸えなかったから』
『みたいな』と言い、頭を掻きながら苦笑いをする。そんないつもと変わらない彼に安心したり、なんだか悲しくなったり。
『だから、この煙草が無くなるまで、また玲ちゃんに逢えるよ』
「本当に?」
『確証はないけど、なんだかそんな気がするんだ』
箱の中身を確認する。残りは19本。また彼と話せる回数。そんなことをしていると、煙草の火は真ん中辺りまで迫っていた。
「一週間に一回!」
『ん?』
「〇〇くんと逢う回数。一日ごとじゃ直ぐに無くなっちゃうし、一ヶ月は待てないから」
『そっか』
「週末に話せるだけで、頑張れる気がする」
『頑張る…ね』
「だからだから、次は週末にまた話そ?」
『わかった、約束』
「うん!」
小指を差し出すと、彼も応える。交わるその瞬間、当たった場所が煙のように揺らめく。期待はしてなかった。だから、そのまま彼を見つめる。
『じゃあ、週末に』
「うん」
最後の煙を吐き出す。その煙に連れられるように彼の体も宙へ漂っていく。
不思議なことに、吸い殻は残っていない。
でもそのことが、「逢うことが出来ない彼に本当に逢えたんだ」という確証になった。
「頑張らなきゃ!」
︎ ✧
次の日から、私の世界は変わった。
あんなに辛かった仕事も、週末のことを考えるとなんてことはなかった。後輩や上司たちも、『いつもの大園が戻ってきてうれしいよ』と言ってくれた。
彼の存在がこんなにも私の支えになっていたなんて。週末なんてあっという間だ。
しっかり仕事して、彼に報告をするんだ。
褒めて貰うんだ。
『頑張ったね』って。
「えへへ…」
いけないいけない、顔が緩んでしまった。
さぁ、気を引き締めて
「頑張らなきゃ!」
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会社の給湯室では二人の職員が話をしていた。
『大園さん、元気が戻ったね』
『本当ね、新しい男でも出来たのかな』
『そうなんじゃない?だって日向野さんって小林さんと…』
楽しそうに会話をする二人の前に一人の女性。
『休憩中でもないのにおしゃべりして楽しそうね?』
『こ、小林さん』
『す、すいませんでした』
二人の職員は、小林を見るや否やバツの悪そうな顔で足早に給湯室を去る。
小林はいつものコーヒーをコップに注ぐ。
『日向野、玲ちゃん元気になったよ。
私、どうすれば良いのかな』