母が倒れた日

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2019年12月2日はランディ・ブレッカーさんの取材日だった。ブルーノート公演を終えて、別のお仕事で引き続き都内に滞在中だった、と記憶している。雨だった。けっこうな降りだった。早い時間のスタートでなのに出遅れて、慌ててタクシーで取材先に向かった。間に合った。ご本人が現れたら否応無しに目に入る位置で、「ここなら見逃すはずがないね」と言いながらレコード会社の担当者と共に待つ。そして見事に見逃した。大きな背中を丸めたブレッカーさんは、いつの間にかロビーのイスに腰掛けて私たちにメールを打って下さっていた。僕はここにいますよ、と。

そんなスタートだった。取材は滞りなく終了。よかったよかった、ホッとした。お腹すいたな。ちょうど昼下がり。裏手に吉野家だったかすき家だったか、牛丼屋があったはず。あそこでランチして、一息入れて帰りましょう。頭の中を汁だくにしながらスマホを見たら、画面に弟からの着信通知が。すでに嫌な予感。教員をしている弟夫婦から平日の昼間にスマホに電話が入るなんてことは、普通だったらまずあり得ない。ザワザワしながら折り返す。案の定、だった。

母は7年前に一度、脳出血で倒れている。その時は軽症で、かつ幸いが重なって処置が早かったこともあり、半年という長いリハビリ入院を要したものの自力で生活できるところまで回復してくれた。だが今回は、どうやらだいぶ出血量が多いらしい。弟たちの話を聞きながら、病院の様子が目に浮かぶ。前回と同じ病院の、同じ集中治療室に入っているという。となると、駆けつけたところですぐに会えるわけではない。医師からもまだ確かな診断は出ていない。さて。。。

結局、次の連絡を待ちながら私は牛丼を食べたのだった。クリスマスソングが流れる店内で。なんだか、とても静かな牛丼タイムだった。実際そうだったのか、私の気持ちが静まり返っていたのか。そして支払いを、と財布を出したら「機械でどうぞぉ」と。あれが初めてのマシーン支払い at 牛丼屋だった。

「自分のことをちゃんとやりなさい。共倒れ厳禁」 父が倒れた時の母からの指示だ。すでに医者の元にいる。心配しても何がどうなるわけではない。できることは病人を増やさないこと。自分の体と生活の管理をちゃんとなさい。その通りだと思う。今回もそれでいく。だから牛丼だって食う。

次に知らされたところでは、ここ数日が山らしい。だけど今日は何もできないので、私は自分の家で仕事や洗濯物を片付けて、しばらく実家で過ごす用意を整えて、そして翌日出発。といっても千葉県なので、ドア to ドアで2時間というところだ。面会時間に合わて行ったのだが、途中で「医者から話があるから早めに来られるか」と。とりあえず急ぐ。そしてまずは母の顔を見る。前回と同じ光景だった。「わかる?気持ち悪い?」と聞くとそれでも「わかるよ、気持ち悪くない」と、痰が絡んだ喉をゴロゴロ鳴らしながら答えた。会話らしい会話は、これが最後だったことになる。

医者の話では、出血とそれによる腫れが脳幹を圧迫していて、このままでは呼吸が止まる可能性があり、できることとして脳を一部切り取ってスペースを作ることで圧力を下げる選択肢があるとか無いとか。いずれにしても元には戻らない、どころか意識も戻らないだろう、とのこと。だったら手術なんかしたってしょうがないじゃないか。母の子供は私と弟だけ。父も、母の母である私の祖母も、とっくに亡くなっている。二世帯同居の弟のお嫁ちゃんは医療関係者。いつも明るくて、こういう時にはプロだ。その娘である私の姪っ子も二十歳になる一端の大人。その4人で話し合う。みんな泣いていた。だけど泣き喚くやつはいない。

今回、救急車を呼んで病院に付き添ってくれたのはこの姪っ子だった。母が「気持ちが悪い」と1階の部屋から呼びかけたのに応じて、すぐに119番してくれたらしい。大したものである。救急車を呼ぶって、そうそう経験することじゃない、というか私には未体験ゾーンだ。母にとってはたったひとりの孫。今どきギャルな彼女の服装や髪型や長い爪に母はご不満だったようだけど、なんやかんや仲良しで、姪っ子もなんやかんやお婆ちゃんを思いやってくれていた。

とにかく、もう助からないのだ。それが大前提。それだけははっきりしている。であればあとは本人ができるだけ苦しくないように、というその一点に尽きる。全員一致で手術は無用、と。医者だって、どうやらその選択肢は出してみただけ、みたいな感じだった。この医者が、やたら咳をしていた。もちろんマスクはしてたけど、あれってまさか、もしや、と今となっては思ってしまったり。彼がペットボトルの緑茶をしきりに飲んでいる様子を、私は母のCT画像と交互に眺めていた。

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