「話す」は「放す」;R3-7-24, Sat. SKR

土曜日、動揺?、叔父からの電話あり。スマホ一瞥で内容わかるも、条件反射で話しを聴く。

91歳の叔父は、数年来の独居で同じ事を何度も話す。幸いなことに、今回は、15分以内に落ち着いた。いつもなら30分以上も延々と繰り返す。

「話す」ことは、言葉のキャッチボールだから、聴いたことを理解してその返事を口で喋ることを交互に繰り返す「高等技術」といえる。20年後の我が身を想定しつつ、こうして電話で「話す」ことは、叔父と私双方にとって「良いトレーニング」となる。少なくとも、そう考えないと人生続かない。

聴くは、「話す」よりもよりレベルが高い。何故なら、前の耳からの記憶があれば、短時間で会話は成立する。時空の失見当識がある叔父は、そもそも時間の認識がズレているのだから。

私は、叔父の口調を見計らってから、電話を切る。これが不十分だと、必ず再電話で、さらに時間が潰れてしまうから。

叔父は、こころの中に溜まる「不安などのわだかまり」を「排出」する手段として電話を使う。排出とは、「放す」あるいは「離す」ことであり、この「はなす」が「話す」の語源と、何処かに書いてある。

一方、「はなす」ものが言葉であっても、弓矢の「矢をはなす」と相手を傷つけるから細かい配慮が求められる。 「矢」と「口」が一緒になると「知」という漢字になるが、詳細は不明。

いずれにせよ、「はなす」ことは、新たに必要なものを取り入れるための必要なこと。社会であろうと、心身においても同じだろう。

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