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この世界は「ありがとう」でできている
この世界は「ありがとう」でできている。
今年6月24日に、うちのおばあちゃん猫が虹の橋を渡っていった。21歳だった。人間で言うと100歳。
うちに居たのは12年ほどだったけど、一番小さくて一番強い仔だった。
ごはんを食べなくなって4日目。
動物が最期にすることは体内に残っている一才の不浄なものを排出すること。
ばあちゃん猫も類に違わず亡くなる数時間前に大量の排尿をした。
わたしはただ見守ることしかできず、そうした。
ただただ見ていたら、しだいに沸き起こってきた感情がある。
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仏教の教えの真理のひとつに「無常」と言うのがある。
文献によると、
「無常」とは、この世の中の一切のものは常に変わりゆくもの、永遠不変のものはないということ。原始仏教経典でははしばしば、一切のものは無常であるから苦である、と述べられている。無常は人間存在の苦の根拠、すなわち、如何なる楽しみも無常であるからしだいに変化して苦しみになる。
とある。
無常であるがゆえに苦しみが生まれる。
果たしてそうだろうか?
日本人は、この「移りゆくもの」や「儚いもの」に常に美や愛着を見出してきた民族である。
咲いては散り咲いては散りゆく桜の花。
来年はもう同じ花は見られないかもしれない。
だからこそ、この一瞬一瞬がかけがいのないもの。
ありがたいのだ。
そして枯山水に至っては、枯れて死んでしまったものにさえ、かつてそこに有ったであろう命を愛で、讃え、そして再び人が鑑賞することによって再び命を吹き込んでいる。
そう思うと、今わたしたちの目の前にあるものすべてに感謝が湧き出でる。
移りゆく瞬間瞬間を見られることのありがたさ。
変わっていく様を見られることの楽しさ。人やモノ、空気や風などの見えないものでさえ「変化」していくからこそ、かけがえのないもの。
そう考えたときに、もし仏陀が日本人だったらもっと違う真理が現されたかもしれないと思えてくる。
もしくは、きっと仏陀は「無常」という真理だけを出されただけで、「それによって苦しみが生まれる」と言うのは後から付随された俗な人の考えなんじゃないか。
太陽は東から上り西に沈む。これは真理である。
ただただシンプルである。
その真理にいろいろ枝葉をつけて「意味づけ」するのは人間のすること。エゴに近い。
そんなことを思う休日の午後。
時間の経過とともに変化してゆく日差しも、ただただありがたい。