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『シビル・ウォー アメリカ最後の日』 見たふりばかりの私たちへ。 

世界公開に遅れること半年。ようやく、『シビル・ウォー』が日本でも公開されます。試写拝見しましたが、どう考えても、率直な意見は「観るのおすすめしません」というもので、だって怖いもの。良い作品というのは、それを観る前と後とで世界の見え方が変わってくるもの、と認識していますが、『シビル・ウォー』は間違いなく世界の見え方を変えてきます。SNS時代に生きる我々の正義を破壊してくれます。ジェシー・プレモンスの佇まいが悪魔です。

映画『シビル・ウォー アメリカ最後の日』は2024年10月4日(金)から公開です。


『シビル・ウォー アメリカ最後の日』あらすじ

舞台はアメリカ。現代。なんなら明日。内戦状態のアメリカ。

資料によれば「連邦政府から19の州が離脱し、テキサス・カリフォルニアの同盟からなる西部勢力と、大統領率いる政府軍による激しい武力衝突が各地で繰り広げられて」いる。

そうしたなか、戦場カメラマンのリー(キルスティン・ダンスト)とライターのジョエル(ワグネル・モウラ)は大統領へのインタビューを企図して、ニューヨークからワシントンD.C.へ向かう。1,400km近い距離を車での移動で、ベテラン記者のサミー(スティーヴン・マッキンリー・ヘンダーソン)と、若手新人カメラマンのジェシー(ケイリー・スピーニー)も同乗することになる。

映画は彼らが内戦状態のアメリカ大陸を移動していく様子を追いかける。合間に戦闘描写が入り、「PRESS」と書かれたベストを着用したリーたち一向は、命の危険と背中合わせに写真を撮り、言葉を拾っていく。

途中、内戦状態とは思えないほど平穏な街を訪れたり、たくさんの遺体を処理する軍人との交渉に巻き込まれたりと、いくつかの場面を経て、一向はついにD.C.に辿り着き、西部勢力に同伴してホワイトハウス襲撃を間近に目撃しながら、リーたちはついに大統領への単独取材へと乗り込んでいく。

世界情勢に便乗して、逃げ道を塞ぐ。

この作品を紹介するにあたっては、映画の文脈と現実の文脈との二種類が考えられる。

映画の文脈、というのは、いわゆる戦争映画、あるいはロードムービーの系譜としてどのように位置づけられるか、というもので、たとえば『地獄の黙示録』と重ねて論評されることが考えられる。市街戦を描いた諸作品との比較なんかもあるだろう。

しかし、おそらく、今年がアメリカ大統領選の年であることを筆頭に、この作品が近い未来のアメリカを、そして世界を描いた作品として観られることのほうが多いだろう。つまり「現実の文脈」での鑑賞だ。なにしろ分断の時代であり、その行き着く果てがこうした状況であっても不思議はないのだから。

そもそもなぜ内戦状態なのか、という点について触れるとまあまあのネタバレになるので伏せておくけれど、そのあたりの描き方からしても、本作が現代の世界情勢を積極的に利用(便乗)していることは明らかで、残虐な描写以上に、作中の人々の言動や思考のほうが、観客をひやりとさせる。なぜなら、「人を殺す」という描写が、「人を殺す」ということになっていないのだ。ゲーム的な描写ということでもない。命が簡単に失われていくとかいった甘ったるい理解とも違う。

作中では実に大勢の人間が手早く、効率的に死んでいく。空気を入れすぎた風船が割れるのとおなじくらいあたりまえに死んでいく。生き延びた側の人間の耳にだけ「戦争だから」という大義名分が響いてくる。死んだ者には何の意味もない理由だ。

先に書いたように、映画の奥には現代の世界情勢が控えている。ゆえに「まあ映画だしな」という逃げ道も塞がれることになる。「いいですか、これは現実に起きているし、現実はこれよりずっとひどいんですよ」と爆音で言われ続けるようなものだ。

なぜアメリカなのか。

脚本・監督のアレックス・ガーランドはイギリス人で、小説家としてキャリアをスタートした。『ザ・ビーチ』の人ですよ。脚本家としては『28日後…』でデビューして、監督デビュー作は『エクス・マキナ』。どれも好きな作品です。

というわけで、イギリス人から見たアメリカ、という雰囲気も『シビル・ウォー』には感じられる。

アメリカ映画だともっと英雄ぽい描かれ方をする軍人であるとか、もっともっと阿呆みたいな大統領の描き方だとかがありそう(というのもステレオタイプな思考だ)なのだけれど、本作ではそうしたカリカチュアはほとんどない。

そのかわり、というわけではないかもしれないが、軍人から一般市民に至るまで、ほとんど全員が自分のスタンスを確立させていて、迷いがない。自分たちはこうなんだよ、という態度を誰もが明確に示している。そして、手にした権力や自由を手放すまいと、徹底した態度を貫く。

そんなのはアメリカに限ったことじゃなく、世界のどこででも起こり得るんだよ、という考えもあるだろう。うん、それはそうだと思う。ただ、それが人間の普遍的な本性なのかということを思うと、よくわからない。戦場ならこれが当然ということかもしれない。

とはいえ、やはり、この作品のリアリティを担保している最重要ポイントは「アメリカ」ということに尽きる気もする。2021年に現実に起きた、アメリカ合衆国議会議事堂襲撃事件も、本作が生まれた背景にあるのは間違いない。

写真の前後を想像させられるという仕掛け。

本作の特徴的な演出のひとつに、写真の挿入がある。主人公のひとりであるリーと、彼女を追いかけるようにカメラマンとして成長していくジェシー、ふたりは作中で何度もシャッターを切る。その写真が、静止画として、作中何度も差し挟まれるのだ。

リーはデジカメで、カラー写真を撮る。ジェシーはフィルムカメラで、モノクロ写真を撮る。最初のうち、ジェシーの写真はほとんど使い物にならないのだが、それでいいのだとリーに励まされる。戦闘の只中に飛び込み、死にゆく者の表情や、助けようともがく人物の様子などを、ふたりは切り取っていく。

スチールが画面に映し出されると、映像は止まり、音もやむ。ほんの一瞬。切り取られた場面が観客の意識に投げ込まれる。その前後も知っている私たちは、止まった世界と向き合うことで、時が流れている世界を想像させられる。静止画の前後になにがあったかを知っているからだ。

そして映画を観終えたあと、その手の報道写真を目にしたとき、否応なく、想像力を働かせることになる。これは、怖い。

陳腐な言い方になるけれど、この映画は、そのものが一種の爆弾であり、鑑賞後、戦争を伝える報道に触れるたび、心の内側で炸裂するものがある。

そしてこうも思わせられる。

戦争について、自分はいままで「見たふり」だけしてきたのではないか、と。

見たふりばかりしている私たちへ。

いまの時代、見ないふりは難しい。ウクライナにせよ、ガザ地区にせよ、日々の報道だけでなくSNSでも情報はどかどかと投げ込まれてきている。

兵士たちが嬉々として略奪する様子が日常のスナップと同じスタイルで流れてくる。うわ、と思う。なにやってんだ、と憤る。見る、見る、見る。そうして戦争の酷さ、人間の醜さを否定することで自分の平穏を保とうとし、それらの情報に接しては背景事情を調べ、「いま起きている戦争」について自分の意見らしきものを述べることもできるようになる。その多くは、正論である。正論といったって「正しい論」というわけではなく、こっち界隈で「正論」とされている意見に過ぎない。そうした考えを自分の意見として心に埋め込むことで、安堵できる。

俺は世界に目を向けている。俺は現代の戦争のひどさを知っている。

「それ、見たふりですよ」とこの映画は指摘してくる。

もっともっと身近なところで同じことを再現してみましょう。アメリカです。ニューヨークです。ワシントンD.C.です。ホワイトハウスです。さあ、こんな未来を望みますか。

いいえ、望みません。

そう答えるのは難しくない。ちっとも難しくなんかない。だけど誰も内戦を望んでそこに至るのではないのだ。

そのような次第で、正直なところ、誰にでも「おもしろいよ」「観たほうがいいよ」とおすすめできる作品ではまったくないのだけれど、でも映画でしか得られない衝撃が確かにあるし、この作品でしか味わえない、キリキリとした緊張感もある。そういった感覚がお好きな方は、なにをおいても劇場へ飛び込むことをおすすめします。

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