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映画『メイ・ディセンバー ゆれる真実』 物語を拒む者と望む我ら

トッド・ヘインズ監督による、ナタリー・ポートマンとジュリアン・ムーアの共演作。映画好きならそれだけで大合格に違いない作品『メイ・ディセンバー』を試写で鑑賞した。率直な感想は「思ってたんと違う!」と「だがそれがいい!」のぶつかりあいで、つまり、おもしろい。邦題には「ゆれる真実」という言葉が添えられているけれど、実際には「揺さぶられる」のほうが合っている。

映画『メイ・ディセンバー ゆれる真実』は2024年7月12日(金)から公開です。(トップ画像は試写会でいただいたチラシから)


『メイ・ディセンバー』のあらすじ

メイ・ディセンバー。5月と12月。この言葉は「親子ほども歳の差のあるカップルを指すもの」らしく、映画『メイ・ディセンバー』は36歳の女性と13歳の少年とが結ばれたという実際のできごとをベースにしている。とはいえ、「事実に基づく物語」タイプの作品ではないし、映画内で事件そのものが直接に描かれることはない。

ナタリー・ポートマン演じる女優エリザベスは、実際のできごとを映画化する作品の役作りのため、当事者夫婦のもとを訪れる。この「できごと」というのが先述の「メイ・ディセンバー事件」に基づくもので、ジュリアン・ムーア演じるグレイシーと、チャールズ・メルトン演じるジョーは、エリザベスの来訪を(表向きは)快く受け入れる。

もともとグレイシーは既婚者で子供もいたが、36歳のときに13歳のジョーと関係を持ち、そのことから懲役刑を受ける。ジョーとの子供を妊娠し、獄中出産で娘をもうける一方、もとの夫とは離婚し、出所後にジョーと結婚する。そしてさらに双子の兄妹を産み、近所の人々ともうまくつきあいながら、一見するとしあわせな家族生活を送っている。この映画のなかでのジョーは36歳。彼が初めて関係をもったときのグレイシーと同い年に達している。

エリザベスが次回作で演じるのは事件当時のグレイシーらしく、役作りという目的のため、グレイシー本人ともいっしょに動き、彼女のメイクやふるまいを研究し、自分のなかにグレイシーを再現しようと努めるし、グレイシーの身近な人々に「彼女はどんな人物か」を尋ねてまわる。慇懃に、しかし「ずけずけ」と表現しても間違いではないくらい、率直に質問していく。質問される側はときにおどろき、しかし、それぞれのなかにあるグレイシー像をいそいそと語り出したりする。王様の耳について穴に語るように、「ほんとうはこう思うんだ」的な言葉も出てきたりする。

だんだんと、エリザベスはグレイシーに近づいていく。ジョーにも取り入り、彼が隠し持っていた古い手紙――少年時代にグレイシーからもらった秘密の手紙――を手に入れたエリザベスは、その内容を使って一人芝居を演じてみたりする。

そうした局面においてもっとも戸惑うのは、ジョーだ。エリザベスの言葉によって、彼はおそらく長年見ないふりをしてきたのであろう疑問と向き合うことになる。すなわち、13歳の自分が選択したことは、はたして正しかったのか。グレイシーを愛しているという気持ち、彼女との人生に突き進んだ決断、それらはほんとうに自分の選択だったのか。

音楽による揺さぶり

『メイ・ディセンバー』のキャッチコピーには、こう書かれている。

実在のスキャンダル
当事者の心で追うか
よそ者の目で追うか

たしかにそういった視点からの物語でもあるのだけれども、僕としては、そのどちらでもないと思えた。当事者の心、というのは、つまり、グレイシーとジョーだろう。よそ者の目、というのはエリザベスであり、その他おおぜいの人々を指すだろう。

通常の映画なら、あるいは通常の物語ならば、観客はエリザベスの目線で物語を追っていくことになる。よそ者がやってきて、皆が「これが事実」と定めていたことを真に受けることなく、本当にそうなのか、実際はどうだったのか、あなたはどう感じたのか、この人はどう考えていたのか、と掘り下げていくことで真実を照らし出す、というような展開だ。

でも『メイ・ディセンバー』はそんなふうには進行しない。

唐突に大音量で響く音楽も、これが通常の物語とは違うのだということを示している。とつぜん、なんでこんな場面でこんな音が鳴るのかと、誰もがびっくりするだろう。場違いもはなはだしい、なにかの間違いじゃないかとすら思えるのだけれど、当然ながらその音楽の響き方は意図的なもので、監督のトッド・ヘインズによれば「音楽がストーリーの流れに完全に従う必要はない」という考えに基づいているらしい。

その印象的な響きは、物語に入り込もうとする観客の心を突き放す。「物語にするな!」と強く訴えてくる。誰かの内面に入り込んで、筋道をつくろうとするな。ここに生きている人間のことを理解できたなんて思うな。そう言われているみたいだ。

実際、それに類する台詞が作中に登場する。ひとの人生を「物語」として捉えることの是非が問われる。

物語にさせないという覚悟

劇中の印象的な場面のひとつに、ナタリー・ポートマンとジュリアン・ムーアが鏡の前で並んで会話を交わすところがある。

ふたりが徐々に似ていっていることをまざまざと見せつけるような場面で、エリザベスがグレイシーに近づくだけでなく、グレイシーもまたエリザベスに似てきている。ふたりは鏡を見ている。互いを見るのではなく、鏡の中の自分と相手とを見ている。そのとき、そこには誰もいない。言葉だけがその場を行き交い、そして消えていく。自分も他人も、ほんとうには存在しなくて、それは言葉のように、その瞬間に生まれ、つぎの瞬間には消えていく、それくらい脆いものなのではないかと思わせられる。

グレイシーは自分がナイーブ(無邪気)だという。無論、エリザベスはその言葉を信じたりはしない。エリザベスにとってはすべてが手がかりであり、グレイシーが本当にはどういう人物なのかを探っているわけではないのかもしれない。

それは、僕らにしてみても同じことで、相手がどんな人物なのかを理解するために、僕らは情報を元手にストーリーを作り上げる。ときにそれは過去にまで遡り、この人がこういう性格なのはこういう過去があったからではないかと、勝手な決めつけで安心したりもする。説明できることに人は従順なのだ。

『メイ・ディセンバー』が射抜いてくるのは、そうした安易な物語化を平然とやってしまう私たちの怠惰な部分だ。

通常の映画は、あるいはそのほとんどは、物語を通じてなにかを伝える媒介だ。物語なしに、僕らは人を理解できない。「人間はそんなに簡単なものじゃないよ」と表面的には知った顔をしてしまうけれど、でも、誰のことも単純にとらえてしまう。身近な人も、遠くの著名人も、これこれこういう人だよね、と形容してしまう。仕方ない。出会う人ごとに深く理解しようなんて無理な話なのだ。どこかで線引きをして、どこかでフォルダ分けをして、どこかで「こういう人」とラベルをつけないことには関係を結べないし、保てない。

だけど、この作品の登場人物たちは、劇伴の強烈な音がそうであるように、自分を理解されることを拒んでいる。なぜか。彼らは最初から「こういう人でしょ」と決められてしまう時間を長く生きてきた。そのように決めつけられることに慣れて、諦めてもきたからだ。

映画の冒頭でグレイシーとジョーの住む家に排泄物の入った郵便物が置かれている。ふたりはこうした嫌がらせにすっかり慣れてしまっていて、捨てたり消毒したりといった行為も手早く済ませてしまう。排泄物の小箱は世間からの仕打ちそのものだろう。

『メイ・ディセンバー』。5月と12月。緑がゆたかな生命を見せつける季節と、植物が枯れて寒さにふるえる季節。映画を見終えたあとには、この題名が、映画のなかの人々と観客との距離感も指しているように思えてきた。そうだとして、僕たち観客が属しているのは5月か、12月か。

いわゆる映画らしい映画を期待すると裏切られてしまうけれど、心地良い裏切りではあるし、いくつもの問いを残していく作品でもある。あの音の衝撃を浴びるという意味でも、ぜひ劇場で観賞すべき。

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