ボーチンブルー養生記 #1
前回、ボロボロにされたボーチンブルーの話を書いたところ、自分の中のボーチンブルー愛の高まりを覚えている今日この頃。
ただ、愛が高まったところで彼女の傷が癒えることはなく、相変わらず無惨な姿でベランダに佇んでいる。
せっかくならばこの一年でどれくらい回復させられるのか、その記録を残してみようじゃないかとふと思い立った。「回復記」ではなく「養生記」の方が、スピード感が合っていると思うし、もしかすると元に戻らないかもしれないという一抹の不安が包含されている。
◆◆◆
先日、植え替えをしたと言ったが、実はボーチンブルーには手をつけていなかった。
理由は諸々ある。
あまりの悲しみに手が付けられなかったとか、生傷を触って菌を入れて腐らせたらどうしようとか、奴からの落下傘攻撃の苛烈さ故に鉢ごと倒され、根が動いてしまっていたのであんまり触らない方がいいかな、とか。
ただ、新芽の展開がどうにも遅い気がしていた。ドリルのように新芽を伸ばしてはいるのだが、一向に葉が開く様子がないため、調子が良くないのでは、と。
まぁ、あれだけのダイレクトアタックを顔面で受け止めているのだから調子が良いわけないのだけれど。
そんなこんなで色々考えた結果、やっぱり植え替えてみようと意を決したのである。
鉢から引っ張り出すとご覧の有様で、いわゆる「根鉢」という状態である。この状態になると根が展開できなくなったり、結果として水や養分を上手に吸えなくなるばかりか、水を吸えないので土が乾きにくくなって、結果的に根腐れへ、という悪循環を引き起こす。
しかし裏を返すとそれだけきちんと根を展開してくれていたということで、見えないところでもしっかり成長していたんだなと顔が綻んでしまう。ただ、チラッと地上部の葉たちに目をやると悲しみが押し寄せてくる。情緒不安定甚だしい。
根をほぐし、古い根を切り落とす。
アガベの根っこは針金のような固さがある。原生地では硬質な石や岩がメインの土壌に根を張っていることから、それだけ強く固い根を張る必要があったのかなと想像すると楽しい。
人間も厳しい環境にいれば強くなるのかもしれないけれど、それもきっと個体差がある。適応力によって難しい環境に生きることも可能かもしれないが、そうして出来上がったその人は、果たして本当にその人なのだろうか。それはもう、別の誰かなのだろうか。
そんなことを考えたり、考えなかったりしながら根をほぐす。
根を見ると、何故か一方向からしか根が展開していなかった。他にそれなりの余地があるのに、何とも変わった人だ。少し偏屈なところがあるのかもしれない。
そう思いながらも、自分の水やりの方法や日当たりの向き、ベランダの若干の傾斜など、色んな要素が絡み合った結果かもしれないと思い直す。
誰かのせいにするのはいつだって簡単だけれど、それは結局何も生まないし、残るのは不毛だけかもしれない。かといって不必要に自責に走ることも、言ってしまえばマスターベーションのようなものだ。その境目で踏みとどまって開いて居られるかを大切にしたいし、そうやっていろんなものと繋がれる可能性を持つことが肥沃さや豊かさなのかなと思ったり、思わなかったりする。
最近自分はこういうことをずーっと考えている気もする。今度ちゃんと書いてみようかしら、そう思いながら根っこをバシバシとハサミで切っていたら写真を撮り忘れてしまった。
記録を見ると、ボーチンと出会ったのは去年の4/16のよう。買ってすぐに植え替えもしたので、ちょうど1年であの根鉢だと考えると、根はしっかり整理した方が良かろうという算段をする。
ちなみにトップ画に貼ってあるのが当時の彼女である。青々として、もはや白味がかっている美しさは思わず見惚れてしまう。
◇◇◇
ようやく植え替えが終わった。
千切れかかったものと、傷んだ葉先は少し整理しながら植え付けた。防虫剤と肥料も混ぜ込み、「頑張ってね」と願いをかけて水をやる。特に初回は鉢底から細かい微塵が出てくる。これも鉢底で詰まって根詰まりを引き起こしやすいので、初回はたっぷりと水で流し切る。
後は野となれ山となれ、である。ボーチン自身の生命力を信じて、時と太陽と風に任せる他、私に出来ることはない。
こういう時、周りが出来ることは当人を信じるくらいしかなくて、強いて言えば、何も出来ない事実ともどかしさを抱えて見守る、くらいだろうか。
何も出来ないことと、なす術がないことは決して同義ではないが混同されやすい。前者には若干の希望が含まれているが、後者は絶望が蔓延していることも、問題を複雑にしていると思う。
植物においては特に、元気がないからと言って水をやったり、急に陽に当てたり、肥料をやったりしたくなるが、実はどれも禁忌である。よくて弱って最悪死ぬ。何かしてあげたい気持ちは悪いことではないかもしれないが、それが結果的に死に追いやっているのだとしたら、それはエゴ以外の何に形容出来るだろうか。
だからと言ってエゴが悪いことでもないし、時にそんなお節介から生まれるものもある。自分がエゴで動いていることの自覚があると、そこに柔らかな配慮の眼差しが生まれるように思う。
ただのエゴは硬くて痛い。暴力だ。
そしてやっぱりそもそも論として、いきなり行動を起こすよりも、何が起こっているのかをきちんとわかることが大事だと思う。人間には言語によるコミュニケーションという発明品があるのだから有効に使わない手はない。
それでも言葉は曖昧で、使いこなすことは案外難しい。自分の言いたいことを言葉に乗せる難しさもあるし、相手も自分をも騙してしまうことは簡単だったりする。
話し得ない植物の言いたいことは分かりにくいけども、少なくとも彼らは誠実で嘘をつくことはない。彼らを愛したくなるのはそういうところだ。
さて、これからボーチンブルーは何を語ってくれるだろうか。
サポートのご検討、痛み入ります。そのお気持ちだけでも、とても嬉しいです。