2024年11月座談会御書解説 衆生身心御書
YouTubeにアップしている御書解説の内容をこちらに書き起こしさせていただきます。文字で読みたい方はぜひご覧ください。
※動画編集作業の都合上、YouTube音声と以下の文章で多少表現が異なる場合がございますので、予めご了承ください。
https://www.youtube.com/watch?v=Id97pVKg0Ws
背景と大意
本抄は、前後が欠損しているため、
宛先や執筆年月が不明とされていますが、
佐渡流罪後、身延へ入られた後にご執筆されたものとされています。
身延の大聖人のもとへご供養をとどけた門下に対してのお手紙と推察されます。
本抄ではまず法華経以前の教えと法華経に分けられ、法華経以前を随他意、それに対して法華経は随自意の教えであると教えてくださっています。
随他意の教えは、衆生の心に従って説かれたものであるがゆえに
たとえ仏の言葉であっても、衆生の心の域をでたものにならず、
一方で随自意の教えつまり法華経の教えこそが、仏の御心をそのまま説かれたものであるから、それを読み信じれば、その利益は計り知れないと仰せです。
つづいて三つの種類の使いのたとえを通して、
少々賢い第二の使い、中国の法蔵、嘉祥、玄奘、慈恩等などを例に出し、
これらの第二の使いとされる人々が、仏の教えに自分の言葉を交えて教えを説くためこれが正法を捻じ曲げていると破折されます。
一方で、法華経を最上の法として広めてきた正師もおり、
末法においては大聖人こそが法華経の行者であり、諸天善神に必ず守護されるとご断言になられます。
いくら真実でないものに供養しても、大悪となっても善となることはなく、
また逆に、正法に供養すれば、例えそれがわずかであっても功徳は大きく、
ましてや厚い志をもって供養すればその功徳は計り知れないと仰せになられます。
最後に、大聖人にご供養をとどけた門下に対してその功徳は大きく、その厚い志に対して、涙も止められないと仰せになられたところで本抄が終わっています。
拝読箇所の解説
蒙古襲来や国内での混乱など他国侵逼難と自界叛逆難が起こり
そのことで民衆の力や活力が弱まっていると仰せです。
大聖人ご在世当時は、真言などの嘘が蔓延し、そのことが原因で人々は現世における活力を失いつつありました。
乱世にあって人々の生活は苦しく、そのことによる生きることの大変さや多忙さのなかにあってでも、遠く離れた大聖人のもとへご供養を届けられたことには大きな功徳があると仰せです。
福田(ふくでん)とは、功徳をもたらす原因をたとえたもので、ここでは、ご供養を届けた門下に対して、そのご供養がやがて大きな功徳となることを強調されている箇所になります。
「なみだもとどまらず」との表現が、その供養がどれほど尊いものであり、
そしてその功徳は絶対であると門下を最大限激励したいという御心を
御示しになられたものであると拝されます。
深堀ポイント
これから御書を研鑽される方のために、深堀していきたいポイントを確認していきます。
大聖人はなぜこの門下のご供養に対して涙されたのか
今回の深堀ポイントは、大聖人はなぜこの門下のご供養に対して涙されたのかという点です。
今回拝読している衆生身心御書以外にも
門下から大聖人にご供養が届けられた際に、
大聖人からその感謝のお手紙として認められた御書が多数あります。
ただ「涙がとまらない」との思いをお認めになられたものはそう多くはありません。
それほどまでに大聖人が「厚い志」とご賞賛されるのは、
具体的にどのような志のことを指しているのではないでしょうか。
本抄において対合衆は不明であり、与えられた時期も不明なことからどのような状況でこの門下が大聖人にご供養を届けたかは定かではありませんが、
同じくご供養に対して涙を流される思いであったとお認めになられていた上野殿母御前御返事から本抄の門下の状況をできる限り推察してみたいと思います。
上野殿母御前御返事からの推察
上野殿母御前御返事は、その名の通り上野殿の母にあてられたものですが、
そのお手紙は、まだ16であったわが子を亡くし、また以前には若くして夫も亡くし、その人生の悲劇ともいえる状況の中で、それでも負けずに信心を貫いてきた母に対して送られたものです。
しかも当時上野殿の母は、稼ぎ手の少ない中で経済的困窮の状況にあったと思われ、しかしそれでも、当時ご体調が芳しくなった大聖人に対して、わずかばかりの蓄えからご供養を届けられたとされています。
つまりは最愛の家族が二人もなくなる大きな悲哀の中で、しかもそれにより自分自身が生き延びていくことだけでも難しい状況の中、それでもご供養を届けられたことに、大聖人は涙されていると拝されます。
今回拝読している衆生身心御書の対合衆においては、
その詳細がわかりませんが、大聖人が「涙が止まらない」とまで仰せのことを考えると、経済的困窮もしくはそれと同等以上の何らかの大きな困難がある中で、それでも、険しい道をかきわけて山中の大聖人のもとにタケノコを届けたのではないかと推察されます。
大聖人はその門下の困難な状況を慮られたうえで「涙が止まらない」と仰せになられたのではないでしょうか。
「福田に種をまく」の意味から掘り下げる
福田に種をまくとは、仏法的には、功徳をもたらす因を作ることを表したものであり、さらにいうなれば、今年6月の座談会御書で学んだ曽谷殿御返事の一説に相通ずるものがあります。
この一説から考えると、
「福田によきたねを下ろせ給うか」との一説は
この門下のご供養の志が、ただ功徳をもたらす尊いものであるという意味にとどまらず、それ自体が衆生に法華経という種を植える、まさに仏の行いそのものであるとの意義を含んだものであるということを感じずにはいられません。
諸法実相抄からの推察
また別の観点で、大聖人の涙について詳しくそのご心情を述べられている諸法実相抄から、本抄において涙を流される大聖人の当時のご心情をを考えていきます。
大聖人は諸法実相抄で次のようにお仰せです。
ここで大聖人が示されているのは、大聖人の涙はあくまでも法華経のゆえの涙であるということです。
大難を思い続ける涙とは、大難に遭う苦しみや辛さの涙ではなく、法華経を難によって身読した歓喜の涙であり、また未来の成仏も同様に、法華経の行者が一人ももれなく未来に成仏していくことをご確信されての大感動の涙です。
また諸法実相抄においては、法華経が釈尊の弟子たちによって涙しながら記されたものであるとも仰せです。それは釈尊が万人成仏の大法を説いたこと、その大慈悲に対する無量の感慨をあらわした涙であると仰せです。
法華経の観点からの「涙」とは
つまり法華経の観点から考えるその涙の意味とは、
単に日常的な辛さやうれしさ、またはそれに対する同情からくる涙ではなく、この万人成仏の法により、全人類が一人残らず成仏していく感動を表したものであると拝せます。
末法のご本仏である大聖人の涙であるならばなおさらのこと、
その涙とは、その人の成仏を大確信されている大感動のご心情を表したものとも拝することができるのではないでしょうか。
また大聖人は今回の拝読個所を含めた次の箇所で
ご供養について次のように仰せです。
正法に対する供養ならばどんなにわずかであっても功徳が大きく、また、
「いとまなき時なれども」とあるように、時間的余裕のない中でそれでも時間を作り、仏法のために行動していくことに、どれほどの功徳があるのかを教えてくださっています。
法戦の結果について
10月27日は、このチャンネルをご覧の多くの方々にとっては悔し涙があふれる結果となりました。
まさに御書にある通り、一人一人が時間といのちを使いこの世界を三変土田の光で包まんと懸命に祈り、行動されたと思います。
たとえそれがわずかであったと自覚していても、その尊い志自体があなたの無量の功徳となって絶対幸福の道が開かれたことは、今回の御文に照らして疑いようがありません。一遍でも、一歩でも世のためにとささげられた志は
一切無駄になることなくあなたの生命の金字塔となって晴れ晴れとそびえたっています。
池田先生は次のように教えてくださっています。
大局観でみれば、世間の目先の政策や行動が必ずしも善のほうに働くとは限りません。それは常に移り変わる無常のものだからです。その時良い結果に思えても、また逆に悪い結果に思えても、次の時代には反対の意味になることもあります。
であればこそ唯一不変の大法を自身の胸中に燦然と建立し、成功と失敗を繰り返しながら、ひたむきに高みを目指して建設し続けていく以外に、真の意味で正しい方向へと歩んでいく術はありません。
今がどんな状態にあっても、無気力にさいなまれていたとしても、それでも法のため、ひいてはあなた自身のために、わずかでも進もうとするその「志」にあなたの成仏は絶対であると大聖人が涙を流し「悦よろこばしきかな」「楽しきかな」とご賞賛の拍手を送ってくださるのです。