2024年12月座談会御書解説 阿仏房尼御前御返事衆生身心御書
YouTubeにアップしている御書解説の内容をこちらに書き起こしさせていただきます。文字で読みたい方はぜひご覧ください。
※動画編集作業の都合上、YouTube音声と以下の文章で多少表現が異なる場合がございますので、予めご了承ください。
https://www.youtube.com/watch?v=JAMqOzEolrg
拝読御文
通解
背景と大意
本抄は、建治元年、1275年、9月3日、日蓮大聖人が54歳の時に身延であらわされ、佐渡流罪時代からの門下である千日尼に与えられたお手紙です。
千日尼が謗法の罪の軽重について質問したことに対する御返事となっています。
本抄ではまず謗法の浅い深い、軽い重いについてその罪報はどのようになるか千日尼からの質問に対して回答されるところから始まります。
まず大前提として、この法華経が万人成仏の法であることを認識したうえで、その法を信じるものが成仏し、謗るものが無間地獄におちていくとご断言になられます。
そのうえで謗法にも浅い深い、軽い重いの違いがあるとされます。
そして法華経をただしく行じていくのならば、少しの謗法があったとしても
深く重い罰を受けることはないと仰せになられます。
つづいて謗法を責めることに話が移ります。
結論から言えば、相手の謗法自体の浅深を慎重に見極めたうえで、
それを責めるべきか、それともその時点では見過ごしてよいものかを判断する必要があると仰せです。
そのうえで、自らの信仰に関しては、如説修行を実践していくべきであり、
自らには謗法があってはならないと再度、謗法の罪の重さを確認されます。
そして浅い罪の者に対しては、むしろ許して功徳を得させてあげなさいと仰せです。
最後に、この謗法の浅深について質問されることは誠にまれなことであり
現れがたい人であるとご賞賛され、力ある限りは謗法を責めていきなさいと仰せになり本抄を結ばれています。
拝読箇所の解説
謗法の浅深と軽重について様々なケースについて教えてくださった後
いよいよ信心をはげみ給うべしと仰せになれます。
他者の場合には、その方法を責める場合と、いったんは見過ごす場合など様々ありその対応については一律にすべきでないと仰せですが、
自分自身においてはひたむきに信心を貫いていくことが成仏への唯一無二の道であると教えてくださっています。
仏法の道理とはすなわち、根本的には、この万人成仏の法を信じていくことで誰人も成仏するということであり、突き詰めればこの南無妙法蓮華経を受持し、また受持させていくことです。
またそのことによってあらゆる人に憎まれるであろうと仰せです。
この仏説を説けば人から必ず憎まれることになるという、考えてみれば不思議な原理は、釈尊が法華経を説いてからの一貫した不変の原理であり、
それは末法においても大聖人が身をもってご証明されたことです。
そして日蓮仏法を信奉する私たちもまたそのようにしていくべきであると仰せなのです。
如説修行とは、法華経如来神力品の説かれている教えであり、書き下して「説の如く修行す」との意味になります。
つまりは、仏の説く通りに、修行するべきであるということです。
仏の説く通りにとは、すなわち、先ほどの拝読個所からつながり、あらゆる人に憎まれたとしても、教えのままにひたむきに信心に励むことです。
深堀ポイント
これから御書を研鑽される方のために、深堀していきたいポイントを確認していきます。
憎まれずに正法を行じていく方法はないのか
今回の深堀ポイントは、
憎まれずに正法を行じていく方法はないのかという点です。
そもそも私たちがこの信仰をしているのは、あくまで自身の幸福を追求するためであり、誰一人としてこの信仰を、人から憎まれるためにやっているという人はいないということです。願わくは多くの人に愛され、国土に愛され、一生を愛されて生きたいというのがこの信仰をたもつ全員の思いではないかと思います。
しかし実際には、今回の拝読箇所にもある通り、人から憎まれるというは、もはや正法であることの条件であり、憎まれることなくして、正法たりえないというのが、この仏法の原理です。
現代においては昔と違い、公然と罵倒されたり、暴力を振るわれるということは少ないかもしれませんが、折伏などの化他行をきっかけとして、その人と疎遠になるということは誰しもが経験していることです。
疎遠になるとは、昔よりも難の度合いが軽減しているように感じられますが
マイナスな感情を抱いていることには違いはありません。SNSなどで多くの人とつながれるようになった一方、物理的な距離感をとることが容易になった現代にあっては自然ななりゆきとも言えます。
その証拠に顔の見えないインターネット上の世界では、学会に対する誹謗中傷、罵詈雑言がやむことはありません。心の世界では今も昔も変わらないのです。
さかのぼれば法華経法師品の有名な一説
でもわかる通り
まさに正法とそれに対する反発や敵対は表裏一体です。
大聖人もこの法師品をひかれ、如説修行抄にて
と仰せになられています。
釈尊の法華経誕生から末法の大聖人、そしてこの学会の現在の歴史まで
それは一貫して、憎まれることこそが本物の証明であるというが絶対的な原理と言えます。
しかしここで勘違いしないようにしたいことは、
単に憎まれることが正しいのではなく、あくまで如説修行の結果としてのことであるということです。
つまりは、誰人にとっても不快感のある振る舞いをすれば、それはそれとして当然憎まれる、疎まれるということです。仏の振る舞いをしてこそ、そのうえで三類の強敵が表れるのであり、憎まれるだけで、それが正しい行いではないことは大前提として確認しておきたい点です。
それでは、仏としての振る舞い、今回の拝読箇所でいう如説修行とは何でしょうか。
如説修行とは、つまりは仏の説いた通りに修行するということです。
そして仏の説くところというのは如来神力品に記されている
の部分であり、つまり末法において、法華経を受持し・読み・暗誦し・解説し・書写するということです。
そして大聖人は、この五種の妙行は、つまるところ南無妙法蓮華経のご本尊の受持につきると結論づけられました。
また言わずもがな、仏としての振る舞いとは、釈尊の結論である法華経に基づくものであり、その点からして、出会う人すべての仏性を信じ、また仏として対していうことを前提としており、相手をどう折伏しようか、または、どう入会させようかという思いだけの偏狭なものであってはならないことは確認しておきたい点です。
その利己的な思いに気づけば不快感を抱くのも当然と言えますし、それは正法を説くが故の反発とは全く異なるものと言えます。
すべての人に愛される幸せな人生を願うことよりも、すべての人を愛し信じて、その人の幸せを願う人生こそが、仏の心に肉薄した信仰の心持といえるかもしれません。またそのようになるよう日々題目を唱えていくことこそが修行といえます。
そのうえで「にくまばにくめ」の心意気を持つことが大切ではないでしょうか。
大聖人は聖愚問答抄の中で、仏法に無知な人の話にも真剣に耳を傾け
一つずつ丁寧に話される様子を記されています。
そうした姿勢の中で、その人は次第に聞く耳をもち、最終的には正法を実践することを誓います。
にくまばにくめというは、「分からず屋はほおっておけ」という突き放した態度ではなく、「今にあなたにもこの正法を信じる時が必ず来る」との確信と達観した境地から得られる言葉ではないでしょうか。
釈尊、大聖人は、自分を憎み、命をも狙った提婆達多、平左衛門尉でさえも
成仏の因となった善知識であると断言されています。
この南無妙法蓮華経を受持し人生を歩んでいけば、必ず憎まれるということは、数多あるご金言に照らしても疑いようのないことであり、避けては通れません。
しかし一方で、一貫して如説修行の金色の道をゆくあなたの胸中には、一点の悲哀もなく、むしろ、「ついに正法のために私を憎む人が現れた」との喜びと感謝の涙があふれているのです。
それは人生最高峰の頂を今まさに歩いているという証明に他ならないからです。
池田先生はつぎのようにおっしゃられています。
自分を憎む人でさえも大きな慈愛で包み込んでしまう太陽のような人。その幸不幸を論ずること自体がおこがましいと感じさせるほどに、あなたの人生は大きく暖かい光で満ちあふれていくのです。