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2025年1月座談会御書解説 三沢抄

YouTubeにアップしている御書解説の内容をこちらに書き起こしさせていただきます。文字で読みたい方はぜひご覧ください。
※動画編集作業の都合上、YouTube音声と以下の文章で多少表現が異なる場合がございますので、予めご了承ください。


拝読御文

この法門出現せば、正法・像法に
論師・人師の申せし法門は、
皆、日出て後の星の光、
巧師の後に拙きを知るなるべし。
この時には、正像の寺堂の仏像・僧等の霊験は皆きえうせて、
ただこの大法のみ一閻浮提に流布すべしとみえて候。
各々はかかる法門にちぎり有る人なれば、
たのもしとおぼすべし。

御書全集 1489ページ 15~17行目
御書新版2014ページ 1~4行目

通解

この法門が出現するならば、
正法時代や像法時代に論師や人師が説いた法門は、
どれも、日が出た後の星の光のようなものであり、
名匠が出た後に(以前のものの)拙さが分かるようになるだろう。
この時には、正法・像法の寺院の建物にある仏像や僧たちの利益は
全て消え失せて、
ただこの大法だけが全世界に流布するであろうと説かれている。
あなた方は、このような法門に縁ある人なのだから、
頼もしく思いなさい。

背景と大意

本抄は、建治4年、1278年、2月23日、日蓮大聖人が57歳の時に身延であらわされ、駿河国、現在の静岡県中央部の三沢殿に与えられたお手紙です。

三沢殿の領地のある駿河の国は、北条家直轄地が多く、幕府にとっても交通や軍事の要所であったこともあり、特に信仰とその活動については慎重な配慮が必要な場所でした。
しかし一方で熱原(同じ富士地方)では大聖人門下の拡大により弾圧が強まっており、そうした背景の中で三沢殿からの手紙は途絶えがちになっていました。

本抄は難しい状況下にある三沢殿から久しぶりの連絡があった際に、
その返信としてご執筆になられたものです。

本抄はまず、経文に照らして正法を行じることにより、必ず三障四魔など大難が起きること、そしてそのことをご自身が身読されたと述べられます。

つづいて佐渡流罪以後、末法の衆生を救う大法を示したと述べられ、
それと同時に正法、像法時代の仏法は力を失い、その大法が流布していくときが到来したと仰せになられます。

ここで前に、三沢殿の縁者である内房(うつぶさの)尼御前が面会にきたが拒否した理由について説明され、信心のあるべき姿を教えられます。

最後に諸宗、特に念仏こそが今日の亡国の原因であると厳しく断罪され
本抄を結ばれています。

拝読箇所の解説

この法門出現せば、正法・像法に論師・人師の申せし法門は、皆、日出て後の星の光、巧師の後に拙きを知るなるべし。

この法門とはすなわち、南無妙法蓮華経のことであり、
末法においては、御本尊を信じ、南無妙法蓮華経を唱えることで
すべての人が成仏していけること
です。

この大法こそがすなわち釈尊が末法の衆生に与えた大法であり、
これこそが末法の衆生を救っていく法です。
この大法が末法ではじめて流布するということは釈尊自身が
言及していることです。

釈尊自身が、法華経薬王品にて
「我滅度して後、後の五百歳の中、閻浮提に広宣流布して」
また
「我が滅後・末法に入らずば此の大法いうべからず」と経文にあると
仰せになられています。

この時には、正像の寺堂の仏像・僧等の霊験は皆きえうせて、
ただこの大法のみ一閻浮提に流布すべしとみえて候。

その時代になれば、それまでのすべての仏法の教説は力を失い
ただ南無妙法蓮華経によって衆生が仏性を表していく時代であるということです。

各々はかかる法門にちぎり有る人なれば、たのもしとおぼすべし。

深堀ポイント

これから御書を研鑽される方のために、深堀していきたいポイントを確認していきます。

「たのもしとおぼすべし」と言われたのはなぜなのか

今回の深堀ポイントは、
「たのもしとおぼすべし」と言われたのはなぜなのかということです。
多くの御書では、

いよいよ強盛の信力をいたし給え。

衆生所遊楽御書
新版1554・全1143


法華経の信心をとおし給え。火をきるに、やすみぬれば火をえず。

四条金吾殿御返事〈煩悩即菩提の事〉
新1522・全1117

などのように強くこの法を信じて、ひたむきに強気で信仰を貫いていきなさいという趣旨の御文を目にすることが多いです。

しかし
「法門にちぎり有る人なれば、たのもしとおぼすべし。」

頼もしく思っていきなさいとは、少し手前の段階、つまりは今現時点で強い信心をおこしてない、不安を感じている人に対して、暖かく包むようなご指導にも感じられます。

実際に、本抄の御文を見ても、
三沢殿は、立場上、大っぴらに信仰を貫いていくことが難しい状況にあることがわかる内容があります。
そして大聖人もそのことを認識されていたようです。

あなたがたは日蓮ほども仏法を御存知ないうえ、
在家の身であり、所領があり、妻子があり、家来があり、どうみても貫き通しがたいことであろう。

また立場の上の問題だけにとどまらず、本抄の大聖人のご返信の内容から
三沢殿が自身の信心について弱さがあり、そのことに対しても不安を
抱いていたのではないかと推察される箇所が多々あります。

本抄全体の冒頭では、
なぜ釈尊が「仏法を学ぶ者は大地の微塵の数よりも多いけれども、
真実に仏に成る人は爪の上の土よりも少ない」
といったのかという点についてのご回答があり、
続く内容で、正法を行じていくうえで何故難が起きるのか、どのような難が起きるのか、そして大聖人が難に遭われる決定した不退転のご覚悟を示される個所があります。

しかしその一方で、

あなたがたはまた、たとえ法華経を捨てられたとしても、
一日片時であっても私の命を助けてくれた人々であるから、どうして他人のように思えようか。

との記載があり、このご回答の内容と大聖人の難に対していくご覚悟を鑑みると、信仰を貫いていくことのマイナス面に着目しがちな門下、つまりは難や信仰の難しさに対して不安を感じている門下を大聖人ご自身が難を一心に受けるとのご覚悟を示されることで最大限に励まそうとされているように感じられます。

あらゆる角度から衆生を励ます仏の知恵

同じ信仰ではあっても人それぞれ立場や信心の浅深があり、一辺倒な指導ではなく、その人の状況にあわせて丁寧にご指南されていることが伝わってきます。

大聖人ご在世当時、熱原の法難のように死者が出てしまうほどの激しい時代であっても、信心は強いものが良く、弱いからダメというような
一面的に単純に判断するのではない
、人間主義のあたたかな思想が感じられます。

これは衆生の機根に合わせているから随他意になるのではないかと
疑問や不安を感じる方がいらっしゃるかもしれませんが、随自意とはつまるところ、この南無妙法蓮華経こそが唯一無二の成仏への道であると言い切っていくことであり、それをどのように教えていくかを問題にしているのではありません。
いついかなる時もどのように解けばわかってもらえるかを熟慮していくのが仏の思考だと思います。

大聖人は、本抄のなかでこのように仰せです。

たとえ法華経を捨てられたとしても、一日片時であっても私の命を助けてくれた人々であるから、どうして他人のように思えようか。もとより私一人はどうなってもよい。私がどのようになったとしても心に退転することなくして仏になるならば、あなたがたをお導きしよう、と約束申し上げた。
(中略)
(法華経の信仰などわからないというように)ただ愚かなふりをしていなさい、と申し上げたとおりにしていきなさい。
どうして見捨てるようなことがあろう。決して決して疎かにすることはない。

無間地獄にも届く仏の大慈悲

たとえあなたが法華経を捨てたとしても、絶対に私は見捨てたりしない。
私がどのような状況になっても、必ずあなたを仏道に導いていくと約束した。

本来、法華経を捨てたならば必ず無間地獄におちるというような
厳格に法に則った指導があるかと思われます。
しかし大聖人は、この自分の信心、そして行く末に不安を抱えた門下を激励するため、たとえこの先、法華経を捨ててしまったとしても、
そして自分自身がどのようになったとしても、最終的には必ず仏道に導くと約束したと仰せなのです。
この仏に包まれたようなあたたかな慈悲に涙を禁じえないのは私だけではないはずです。

まさにこの厳格な法をただただ機械的に当てはめていくのではない
どこまでも血の通った人間主義の法であることがこの一説をとおして伝わってきます。

これは仏法の本質、仏の真意、開仏知見の心です。

「たのもしとおぼすべし」とは、単にこの法は正しいので安心してくださいという客観的な見解を示すものにとどまらず、
あなたがどんな状況になったとしても、私が必ずあなたを仏道に至らしめるという、まさに、その一歩踏み出す勇気を持てず立ちすくむ人に対して、
同じ方向に立って暖かくその肩を抱き私が一緒に歩いていきいますから絶対に大丈夫ですと暖かく励まし語りかける言葉です。

「ちぎり有る人」とは、この法に縁したすべての人を指します。
たとえあなたの信仰が今折れそうになっているときでさえも
あなたらしく信仰を貫いていけばきっと大丈夫です、焦る必要はありません、地味でいいんですと大聖人が柔和な笑顔で語りかけてくださっているようです。

わずかでもいい、あなたの今の信心を大切にしていけば、その心に無量の功徳があり、またその功徳によってあらたに、あなたの大切な人を幸せにしてけるのです。

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