人生初の仮装をして「わたしがここに居る」ことについて考えた
こんにちは、こもです。
先日、人生で初めての「仮装」を体験しました。ただの陽気な人たちの集いだと思っていたのですが、そこで思いがけず「私が存在していること」について思いを巡らすきっかけがあったのです。
生きてるって驚きがいっぱい。
ハロウィンと縁のない人生
学生時代も社会人になってからも「ハロウィンパーティ」なるものに一度も参加してこなかったのは、単に誘われなかったから、というだけなのだけど。それでも、電車や街中で仮装してワイワイしている集団に遭遇すると、なんか楽しそうだし騒がしいし、メイクとか怖いし、ちょっと距離を置きたくなる感じでした。
仮装は日常から逸脱する快感だった
”踊る阿呆”を「阿呆だなあ」と思っていたわけですが、今回、嫌々ながらも仮装をしてみて、めちゃめちゃ楽しかった。
衣装を選ぶのとか、顔にシール貼ったりとか、日常ではぜったいしない衣装と化粧は「わたしではないわたし」の体験で、「生まれ変わり」といったら変だけど、鏡に映る自分をみて「これはわたしだけどわたしじゃない」という不思議な気持ちになりました。
わたしが「いる」とはどういうことか?
いろいろな仮装をする人たちがいて、うちの何人かは顔に「お面」を着けていたんですね。で、パーティ後にチャットグループで写真をシェアしたのですが、だれかが「お面だと誰が誰だか分からないね」と言ったことに対して、お面を着けていたた当人が「あれ、私どの写真にも写ってないね」と冗談で返したのです。
その文字をさらっと読んでいたのですが、ふと、なんだかこれってすごい問いじゃない?と。
「お面をつけていた彼はたしかにあの場所にいたのに、そこにいない」ってどういうことなのだろう。
「わたしがいる」とはどういう状態なのだろう。
たまたま『方法序説』を読んでいたタイミングなので彼の意見を参考にすると、デカルトの「私は考える、故に私は存在する」が成り立つなら、私の存在には私の思考が必要っぽい。
写真では「顔」しか分からなくて、そこには言葉がないのだけど、私たちの「顔」は思考を映し表すメディアだとしたら、お面をかぶった(顔の見えない)「私」では、「私はそこにいない」ということになるのだろうか。
ただ、わたしは「彼がお面を被っていた」ことを記憶しているから、写真情報では伝わらないことを脳で保管することができる。
であれば、彼が「あの場所にいた」ためには、記憶が消えないようにつながりを途絶えさせなければいいのではないか、という結論に行きついた。
というわけで、これからもゆるゆるとつながっていこう。
ということを当該のグループチャットに投げたかったけど、あまりに思考を飛躍してひかれそうだったので、自分の備忘録としてここに置く。
ではでは~