ジュリア・クリステヴァ著『ボーヴォワール』を読んで
「ボーヴォワール」
「女性の存在(être)幸福の現代的な意味であるところの自由という観点からの個人的な可能性に、いかにして女の条件を超えて到達できるのか」p.25
社会的に作られた形での幸福とされる価値体系を乗り越えて自由になるにはどうするべきか、拠り所がない個人が確固たる信念によって自己のみをよりどころとして幸福を追求するはある意味で孤独である。ボーヴォワールという人は恐らくその孤高で自己矛盾と葛藤し続け、文学作品によってそれを昇華し続けた人なのかもしれない。
この本の著者も含め、ボーヴォワールより後の時代の人々は、再構築するような象徴性、つまりボーヴォワールのような人間を価値体系の創造主として紐帯することができ、新たな価値観を共有することができるようになった。つまり、フェミニズムとして認知されるようになった。
「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」
この言葉はボーヴォワールを敬愛する人々の心を一つにする言葉である。彼らは「生物学的な女性」という語にまで嫌悪感を示す。
私はこれまで性別というのはて生物学的なレベルで真であると考えていた。人類の身体的な特徴を大きく二分するならばそうなるはずであるからだ。私はこの言葉は今でも揺るがないし、間違いではないと考えている。
問題なのは心に性を持つのは生物学的なレベルでの話なのかどうかである。彼らは恐らくその点を言っている。身体的な特徴と同じように心も女性として生まれてくるのか、それとも生まれたのちに社会によって規定され、作られるのか。この問題提起は非常に素晴らしい洞察と発見を含んでいるであって、私を新たな人文学的な関心に導いた。
ボーヴォワールは女として生まれるのではなく、「女になる」のだと断言している。あまりにも当然とされている前提を問うたとき、人間学的な革命が起きたのかもしれない。実体験になぞらえて、本当にボーヴォワールのいう通りかとしれないなと思う人も少なくないのではないか。
この言葉は男性にとってもある心の解放を生むように思う。少なくとも私は女性を理解しがたい対象として、自身とは対極にいる存在として時に神秘的なほどに魅力的だが、なかなかとっつきにくい生物として見てきた。しかし、もしも性が社会的にカテゴライズされたものならば互いの障壁も取り払うことができる。少なくともこの立場からなら色メガネをひとつ外した状態で愛する人を理解しようとすることができるだろう。
いま、私の環世界への認識が塗り替えられたのかもしれない。
2023/07/05
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