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おばあちゃんの鶏ももの”照っり”

三年前に他界したおばあちゃんはとにかく上記鶏ももの照りの如き、頬が赤茶くてピカピカで(その様子はアンパンマンの頬の光り方が白い四角の箱□で表現されるようで)健康的な人であった。

それこそ、毎日朝もはよから畑へ出かけ、水やり、草むしりと、畑に行っていない自分としては予測で書くしかないのだが、畑仕事に精を出し、その朝の新鮮な野菜を大きなプラスチックのざるに入れて持ってきてそれらが朝の食卓に並ぶのだ。その野菜がうまい!本当に「畑が上手な人」と言われていた。

もちろん、野菜の農家さんとは違いあくまでも自宅で食べる分の野菜を自作している程度で、余ったりうまくいったら近所の人にあげるくらいの規模であったが、家族も知らないところで近所の一人暮らしの家に度々袋いっぱいの野菜をおすそ分けしていた。ということが分かったのはおばあちゃんが亡くなってからのことだった。

おばあちゃんの仕事

そんなおばあちゃんは朝から晩までとにかく働く。朝食を食べ終え、朝の連続テレビ小説を細い目をしながら見終わったかと思うと、遠い目をしてから近所の商店に出かけていくのだ。その名は「末吉商店」という。

このコンビニエンスストアが幅を利かせた昨今においても、未だ近所のために活躍し続け、世代交代も見事に成し遂げ、ご近所の台所の役割も「惣菜」という形で買って出て、まさにコンビニエンスストアそのものの形を残しているのである。

その「末吉商店」。かつての姿は仕出し屋として、冠婚葬祭、法事、集落の集まりの後の打ち上げ、またの名を「はばぎぬぎ」にも、「おりっこ」と呼ばれる仕出し料理をお届けする役割を担っていたものである。その味には定評があり、大型スーパーに仕出しを頼むよりもおいしいと、集落の中ではかなり贔屓になっていたのである。

その数十人単位の料理を作っていたのが、かの末吉商店の主人こと「とっちゃん」とおばあちゃん、そして、たまに来る末吉の家の親戚である千鳥さんであった。おばあちゃんはそこで、年中ほぼ休まず働くという生活を40年近くやっていたのである。

幼稚園に入った頃から両親が共働きになったため、帰ってきてバス停で降りてから自宅より手前にあった末吉商店に寄ってから、夕方におばあちゃんと帰宅するのが日課だった。

仕出しを食べて育つ

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末吉商店では表の商店部分では、のりさん通称「あっちゃん↑」が店の番頭さんとして5玉のそろばんを弾いていたわけだが、そのあっちゃんにただいまと告げ、店に上がりそのままズカズカと店の奥へと進んでいくと、奥に大きな調理場があり、そこには談笑しながら仕出しの仕込みや折りへ詰めているけんぞうさん通称「とっちゃん↓」とおばあちゃん↓がいた。私が帰ってくると「ほれ、つぶ貝食べれ」と大鍋いっぱい入っていたであろうつぶ貝の煮物の底の方2段くらいが残っており、それを次から次へつまようじ片手に片っ端から食べていいという特権を得ることも度々あった。

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他にも、大きな丸い缶詰のキウイゼリー(ホールのケーキを切り分けた個装のような形になったカップに入って、5段くらい入っているのだが、その個装ゼリーを取り出すと、その周りを囲んでいた切れっ端のゼリーがお目見えする。)の余りを食べたり、蟹グラタン(よく見かける甲羅に入ったグラタン)、フライ、刺身など仕出しに詰めるものの余りを頂戴していた。

私にとって至福の時であった。

売れ筋の鶏もも

それらの余り、むしろ計算されてたくさん作られた料理は惣菜として末吉商店の表舞台にも表れていた。そこで、大人気だったのが、「おばあちゃんの鶏もも」だったのだ。おばあちゃんの鶏ももが店に並ぶと一気に売り切れる。お店に並んでないときには「まみこのおばあちゃんの鶏ももあるが?」と聞かれるほどなのである。だから鶏ももが並んでいる日には「え、まみこのおばあちゃんの鶏ももあるな?買う買う」というような会話が飛び交っていたのだそうだ。

そんな人気の鶏もも。作り方もかなり豪快で、晩年見せてもらった時には、冷凍から出してきた鶏ももをめいいっぱい大鍋に入れて醤油どぼどぼ、砂糖袋でさばっとほぼ使い切る、お酒じょぼじょぼ・・・。その秘密レシピは私はまだ教えたもらっていない。歓喜の声を挙げて眺めていた。

いつまでもあると思うな親と金、ならぬ。

そんな元気印だったおばあちゃんが4年ほど前から「疲れやすい、歳のせいだな」とあっちゃんと話していたのだが、(今思えばもう少し早く病院で詳細見てもらう必要があったのだが。。今でも悔やまれる。)3年半前、末期の肝臓癌だということが判明した。病院の帰りにおばあちゃんは「せば今年のうちに死ぬなだってがー?」と気落ちしていたと話を聞くも、翌日、病気が分かってからも少し体力があったからと末吉商店に出社したおばあちゃん。それを見たあっちゃんに「病気なんだがら寝てねば駄目だ。」と追い返されたほど。そんなことも笑って話していたのにー。

それから3か月であっという間に逝ってしまった。

とはいえ、おばあちゃんが疲れやすいと言い始めた辺りから末吉商店の娘さん(調理師)へ鶏もものレシピは受け継がれていて、はじめのうちは「おばあちゃんの鶏もものほうがうめな」と言われてはいたものの、徐々に味もおばあちゃんの鶏ももへと近づいて、今も末吉商店の総菜コーナーに並んでいるのである。私はというと、母親が作る鶏ももの味も固まってきて、たまに大量に鶏ももを送ってもらってしまっている。こんなことしてもらえるのも母親が元気なうちであるが、いずれそれも叶わなくなるかと思うと早くに教えてもらわなければいけない。急務なのである。

しかし今はまだ、甘えられるうちは食べていたいそんな大切な味なのである。



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伊藤麻実子
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