僕には、Leica M3 だけでいい、という話
Leicaを選ぶ人は、その選択に、大なり小なりの必然性を見出していると思う。
今日は、僕なりの必然性の話を。
僕には、Leica M3 以外の Leica は全く必要ではない。
僕の目撃と言う経験が、見たままに鮮烈に、再び見ることができる形になりさえすればいいのである。
ぼくの見出した鮮烈さは、フレーミングによって生じるのではない。
画角によって生じるのではない。
ぼくの写真の境界線というものは
撮影しようという僕には、分かり切らないぐらいで丁度いい。
僕は視野の縁というべき境界線を知らないし、
目撃の最中にあって、肉眼の映すところ全てを
捉えることはない。
M3 で 写真を撮ることは、視界における気付きを、
丁寧に、まばたき、
もう一度見て、
憶えておこうとすることに似ている。
M3 には、存在感が無い。
カメラを手にする。
今、構えている。
今に、シャッターを切るぞ。
今!
などと、意識が身構えることが無い。
巻き上げが軽い。
シャッター音と衝撃は、まばたきの印象と近い。
ファインダーは、覗くのではなく、透かすものだ。
僕が目撃の最中にあれば、
その間
始終そのままの僕で
M3 を構え、
シャッターを切り、
元の姿勢に戻るだろう。
M3 で撮ることは、見ることを遮らない。
それがあまりに自然で、理想的だったから、
僕は態々 M3 を選んだ。
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