火と水と石と原始神性
子供が執着しやすい3つのものは「火、水、石」とする説がツイッターランドで流れた。これに対して、この3つだけでなく「棒」や「虫」、「男性器」が気になると答えた人も。
ツイッターランドの動向を見つめ続けるサブカルライター・モトタキが、学術的では決してない戯言で、この事象をそれっぽく語る。
原始宗教の神体となる火と水と石
神をカミと呼ぶ。そしてカミは火水とアテることが出来る。原始宗教で神体とされがちな自然エネルギーそのもの。神性が宿るのもわかる。石に関しては巨岩信仰がある。
子供たちには、まだ世界宗教による入れ知恵が弱い。だからこそ原始宗教の神性に惹かれやすいと見るべきか。
これらのものは原始生活において、人類にとって生命を助けるものである。火があれば肉を調理することができ、獣を近づかせない効果も期待できる。水は無ければ生きていけない。生命の源でもある。石は棲家となりうるものだ。道具としては飛び道具になる。
もっと別目線でいけば、山と海も異界である。異界とは神の住まう場所である。神性がそこに宿る。山には木がある。雷が落ちれば火が生まれる。山にも海にも水がある。山と海を繋ぐ川を石は転がる。全ては異界に近いものばかりなのだ。
さて、3つの他に挙げられた他の要素たちであるが、実際これが面白い。実はこれらもまた神性の強い存在たちなのだ。
棒や虫にある神性とは
棒は人類が最初に手にした道具とも言われる。農具であり、本能的に求めやすい形状なのかもしれない。神も杖を持つものであり、その姿は槍にも見えて武具としての形状でもある。
虫に関しても、本来はそのあたりで突然わいてくるものだと考えられていた。そして害虫であるか益虫であるか。或いは食べ物としては毒虫であるか。このあたりがどう動くのか。
なお、今では忌み嫌われ気味な虫であるが、蜘蛛や百足は本来は神である。蜘蛛は多産であり、その生態は子沢山の象徴としてもてはやされた。糸を吐く姿や水神としての一面もある。機織りと天の川と織姫の流れを見るように、原始的には糸は川と同一視される。
蜘蛛を愛した人はいなかったが、ダンゴムシやコオロギはいた。ダンゴムシは土いじりでよく見る。触れれば石のようであり、害がない。コオロギもまた害がない。やはり、害がない虫は益虫として子供を夢中にさせる魅力を秘めているのか。
男性器の神性は根深い
男性器なんてものは神性の塊である。男性器や女性器を祀り上げるのはかなまら祭りだけではない。そもそも、子を為す為の象徴である性器はそもそもに神性を帯びた存在なのだ。
異性の象徴でもある。そこには生物的な違いを視覚的に見せつける効果があり、子供ながらにそこに興味を持つのも当然だろう。
女性に関していえば、異界と親しい存在とされる。子を生む女性は異界とつながっている。魂は異界から来て、異界に戻ると考えられていた。原始的にそれなのだから、子供のなかにはそれを感じ取る人がいないとも限らない。性器への興味は、異界への興味なのだ。
神性は荒御霊と和御魂によって成る
多々ある意見のなかに「怖いので好きにはなれない」との言葉もあった。神性は必ずしも惹かれるものばかりではない。怖がる気持ち。畏れもまた神性を生み出す為に足る感情である。
これを荒御霊と和御魂という。脅威と恩恵のそれぞれの側面である。いってしまえば、作り物の神仏は完璧善神であり悪は魔とされ切り離される。ドラゴンボールの神様とピッコロ大魔王の関係のようだ。だが日本の神はその善悪の面を兼ね備えた存在なのである。つまり、神コロ様こそ日本的な神の姿だと言える。
子供たちが興味を惹かれ、愛して、そして怖がるその物質の本質にこそ神性はあるのだろう。
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