沙石談話「狗尾草」
学生食堂でぼくはもくもくと水気の多いカレーを食べていた。スープカレーなんてことはなく、ただ安さの追求のために水増しされたカレーだ。食えないことはない。ここ数日はとても静かな昼食の時間が続く。ふと、そういえば山岸はどうしたのだろうと気になった。
ぼくは山岸との共通の友人である小暮に電話した。彼は明るくヒトをおちょくって生きている愉快なやつだ。
「珍しいじゃないの。君から電話なんて」
小暮は心底不思議そうな声だった。ぼくは山岸を最近見ていないことに気づいた件について聞いた。小暮は「ああ……」としばらく止まり、それから話し始めた。込み入った話は一度頭の中で話す順番を整理してから話す、それが小暮の癖だった。面倒なことになりそうだ、とぼくは感じた。
小暮の話をまとめると、山岸は金に困ってまた怪しいアルバイトに手を出したようだ。それは順調だったそうだが、数日前に山岸は姿を消した。気になったヒトが山岸の家を訪ねたが返事はなく、猫の鳴き声とドアを引っかく音がするばかりだった、そうだ。ぼくは、思わず言葉を返した。
「山岸が猫を飼える身分と思うかい。あいつ、自分ひとり食わせられない赤貧中の赤貧だ。そんな甲斐性があるように思えないんだが」
小暮も同意見だった。ならば、山岸の家に居る猫は何者なのか。そもそも猫が数日も部屋に籠もる状況は危険ではないのか。餌はあるのか。途端、山岸よりもその猫のほうが心配になってきた。ぼくは小暮に礼を言って電話を切り山岸のアパートに向かった。
山岸の家の前に立つ。山岸の家は学校から近いことだけが利点なのだ。強く叩けば取れそうなドアにトントトトットン、トントンとリズミカルなノックをしてみる。返答はない。ただ本当に猫の声が聴こえた。
ドアノブをガチャガチャとやってみるが開く様子はない。(ボロのくせにセキュリティとしてはきちんとしている)と胸中に毒づきながら、家の周りを見渡す。ドアの横の窓の錆びかけた格子に鼠色の木の箱があるのを見つけた。
それは箱であるがどちらが蓋かもわからない。開けさせる気が一切ない立方体だった。ぼくはそれを捏ねくり回し、特定箇所をスライドさせていく。21回の仕掛けを解いて、ようやく開いたそこに鍵はあった。
山岸のアパートの扉を開く。玄関には痩せ細った黒猫が一匹、こちらを見上げている。ワンルームの部屋の中には山岸の姿もない。やけに本や民芸品など物は多く、荒れても見えるし一定のルールで整理されているようにも見えた。
ぼくは道すがらに買ってきたキャットフードと猫用栄養ドリンクを器にうつして黒猫にやり、夢中でそれにがっつく黒猫を横目に部屋を見て回る。
奇妙だった。部屋はごちゃついてはいるが荒らされてはいない。部屋の真ん中に置かれた丸テーブルの上には飲みかけのお茶が入ったコップがひとつ。ベッドはついさっきまで誰かが寝ていたかのようで、掛け布団をめくるとそこにはジャージ一式が着ているヒトが溶けたかのようにそこにあった。
「山岸は神隠しにでもあったとでもいうのか。ふざけた話だがありえない話でもない。しかしどの神にちょっかいをかけたのか。バカなやつだよ、本当に……」
おもわず声に出ていた。視線を感じてそちらを見る。飯を食い終えた黒猫がいた。黒猫はなにかを訴えるように鳴きはじめた。
「なにか言わんとしているような。そういえば先日、南方熊楠の猫語入門を読んだところだ。試してみるとするか」
ぼくはミャウミャウミャウと鳴く黒猫の言葉を解読していった。少し嫌な予感はしていたが、確信に代わった。この黒猫が山岸だった。
山岸が手を出していたアルバイトは季節外れの狗尾草の収穫とそれの焙煎だった。美食家に卸すものではなく愛猫家に人気の品だと聞いたそうだ。なんでも猫と話せるようになるのだという。
猫と意思疎通ができるのであれば探偵のアルバイトでしている猫探しが捗るのでは、と考えた山岸は商品をちょろまかして茶にして呑んだ。だがその夜になんとなく具合が悪くなったので横になった。その後、目を覚ましたら猫になってしまっていたのだ、という。
「阿呆の極みだな。山岸よ、夏のモノである狗尾草がこの寒い時期に採れることを不思議と思わなかったのか。時空の歪みがあるもの。つまりそれは異界のモノだ。山中異界を結界で顕現させたところで育てたかなにかだろう。まったく、まったくお前というやつは……」
ぼくは猫の山岸をじぃっと睨むと、解呪について考えていた。(狗尾草は犬に関わりそうだが今ならば猫じゃらしのほうが通じる。ゆえに猫か。そして狗尾草はすなわち粟の原種。五行の赤、火。その力を減じるのは……)と、そこまで考えてからひとつ解決案に思い当たってしまった。
「山岸ぃ……。あとでしっかり労働で徴収するから覚えておくように」
猫の山岸は身震いしてピンと尾を立てていた。ぼくは山岸に部屋で待つように伝えると自宅に向かった。
自宅のキッチンの引き出しをがさごそと漁って目当てのモノを調達する。(ああ、いやだいやだ。あのモノの価値もバカモノにこれを使うのはもったいない。……だが飯時の退屈ぐらいは紛らわせてくれる。山岸がいないのはつまらん。だからこれは貸しにしておくしかないか)と、山岸の馬鹿面を思い浮かべて無自覚に口元を緩ませる。必要なモノをカバンに詰め込むと、ぼくは山岸宅に戻った。
ぼくは山岸宅のキッチンで発酵コーヒー豆をコーヒーミルでゴリゴリと挽いていく。ケトルで熱した湯をドリッパーとサーバーに注いで温めると、タオルで水滴を拭う。サーバーの上にドリッパーを乗せてフィルターを設置すると、挽いたコーヒー豆の粉末をそこに盛りつけた。
ケトルの湯を温め直して、注ぎ口からフィルターに盛られたコーヒーにむけて細い線ができるように器用に注ぐ。湯量に気をつけ、コーヒーの粉から溢れないように、湯を含んだコーヒーの粉が盛り上がるのを眺める。
ポタポタと抽出されたコーヒーがサーバーに溜まっていく。充分な時間で蒸らして贅沢に最後の一滴までコーヒーを溜めると、湯で温めたコーヒーカップに注いだ。一口飲む。納得の味だ。ちらりと黒猫の山岸を見やると怯えた表情をしていた。コーヒーは猫にとっての毒なのだから当然といえば当然だ。
「山岸ぃ、お前は猫である前に人間だ。だからこれを呑んでも大丈夫だ。騙されたと思って、さあ飲むんだ」
ぼくはコーヒーを皿に注ぎ、塩をサラサラといれるとかき混ぜて山岸の前に置いた。山岸は目に見えておっかなびっくりの表情で皿に注いだコーヒーを舐めていく。ぴちゃ、ぴちゃと立てる水音。それを聞きながら、ぼくは術式を開示した。
「お前が狗尾草は粟の原種。異界であっても五行からは逃れられない。五行相剋において、粟に克つのは豆だ。そして赤に克つのは黒。更に塩辛さの味の五行を足して、豆も腐らせたモノにした。ここまで強めれば打ち克てると踏んだわけだ。……いいから服を着ろ山岸」
目をやると山岸は人の姿になり全裸で四つん這いになりながら皿のコーヒーを舐めていた。言われて気づいた山岸はベッドに潜り込んでジャージを着る。そしてベッドの上で五体投地しながら叫ぶ。
「本当に助かった! ありがとう心の友よ! 俺はお前がいなかったらもう何度この世のものでなくなっているかもわからない」
そうかそうかと頷きながらぼくは「感謝はいくらしても足りないだろう。今度、ぼくの研究のための人足として扱き使ってやるから大いに喜べ。この阿呆め」とニヤニヤ笑った。山岸はすこしだけ表情を曇らせたが、すぐ人の姿に戻った安心感を噛み締めて笑顔で「やってやらぁ!」とガッツポーズをしてみせた。
ぼくはそんなバカを眺めながら、コーヒーの薫りと味わいを楽しんでいた。本当ならばもっとシチュエーションを調えて嗜みたかったのだが、友のためのひと仕事を終えた後の一杯でもわるくはないものだ、と口には出さず噛み締めていた。
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