コロナ禍で考えた、“情報”との付き合い方
コロナが私たちの国にもやってきてから、すでに1年あまり。
ありがたいことに私の生活は守られ、新しいお仕事もさせていただけて、
コロナ禍でもずいぶん充実した日々を過ごせたと思う。
同時に、あらゆることを改めて考えさせられる機会をもらった1年だったし、この時期を通して自分の中でいろいろ変化したと感じることも多い。
その中の大きなひとつが、情報との付き合い方。
昨年5月からのメディアの仕事はほとんど全てをオンライン上で行い、
会社の人や友達とのzoom飲み会に参加し、
友人や知人の素敵なおうち時間をインスタストーリーで見て、
刻一刻と変化する国内外のコロナの状況をテレビやインターネットでチェックして、
毎日のようにTwitterに流れてくるイノベーティブな取り組みを目にして、
同時に政治への批判や不満も目にした。
みんなが人とのつながりを求めていたし、私ももちろん寂しかったから、インターネットでここまで人と繋がれること自体は素晴らしいと思ったし、仕事だってやりがいがあった。
音楽イベントはオンラインに移行し、それまでなかった面白いコンテンツや取り組みがどんどん見られるようになった。
でも、ある時から、どんなに必要で有益そうな情報を集めても、友達の素敵な日常を見ても、音楽関連のイノベーティブな取り組みを見ても、全く心は満たされていないことに気づき始めた。
それどころか、前年に比べれば遥かに時間に余裕があって、夜遅く家に変えることもなくて体力が有り余っているはずなのに、脳みそだけがどんどん疲れていく。ピアノの練習に、あまり集中できない。
一体これは何なんだろう?
そしてそのうち、私は至極当たり前のことにやっと気づいた、
頭に入ってくる情報が、あまりにも多すぎるんだということに。
一刻も早くこの状況を何とかしようと思った。
そこからは、デジタルミニマリズム関連の記事や書籍を読んだり、情報から逃げるようにスマホからいろんなアプリを消しまくったり、やらないこと、見ないものを徹底的に決めたり。ホットヨガを中断してから忘れてしまっていた、瞑想やマインドフルネスについてもちょっと詳しくなったりした。
おかげで、今は頭に入ってくる情報の数を、けっこうシビアにコントロールできるようになったと思う。
例えるなら、家の玄関を常に開けっぱなしにしておくんじゃなくて、普段はきっちりドアを閉めておいて、本当に必要だったり、欲しい、と思った情報にだけドアを開けて家の中に入れてあげる、みたいな感じ。
以前からテレビを観ることはかなり少ない方だったけど、家族がテレビをつけているからニュースなどは何となくで見ていることもあった。でも、今はそれすらしない。興味が無いならなるべく耳で聞かない、画面を見ない、その場からすぐ離れる。
唯一の時々ちゃんと観るものと言えば、平日22時からのNHKのクローズアップ現代くらい。いつも勉強になってます。
インスタも、空き時間に何となく開いてスワイプして、時間を取られてしまうということはほぼ無い。1度に何人もの大量の情報を目にすることができてしまうSNS は私にとってはかなり疲れる。もちろん大量の広告もしかり。
友達の日常の投稿を見ないのは最初は何となく気が引けた。でも、そのうちこう思うようになった。大切な友達なら、会った時に全力で相手の話を聞いて、共感しよう、と。
もう大人なんだしちょっとは見ておいた方がいいかな、なんて思ってた、Twitterに流れてくる政治への意見や批判。SNS 上の意見や議論に全く意味が無いとは思わない。でも、140字で書けることはどうしても限られている。故に、変な勘違いの連鎖やズレた議論も多い。だったらしっかりと政治について知ることができるような書籍を読んだ方がまだ有益だと今は思う。
勢いのある鋭い言葉は、それがどんなにその人にとっての正論だったとしても、見ていて疲れる。何がどうなって日本中にマスクを配ることになったのかなんて、本当のところはわかりっこないんだから。
4月からまたお仕事に戻るし、今のこの状態をどのくらい維持して行けるかは正直わからない。でも、疲れてしまったらここへ立ち戻る。情報過多になっていることをきちんと自覚する。自分の脳みその容量を、多く見積もらない。
特にメディアという"情報を発信する仕事”だからこそ、自分が情報に振り回されないように、しっかり手綱を握っていたい。
逆に発信する側としては、モラルがあって、質の高い情報のみを発信していけるようにならなければいけないと、強く思う。
自分たちの発信する情報を見てくれる人にも以前の自分のように疲れて欲しくないし、無理しないで欲しいから。