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昔の日本の邦楽に関する引用
今のとだいぶちがう、昔の邦楽を聞いてみたいものです。
「我々の間の種々の音響の音楽は、音色がよく快感を与える。日本の音楽は、単調な響きで喧しく鳴りひびき、ただ戦慄を与えるばかりである。」(ヨーロッパ文化と日本文化)
「ヨーロッパの国民は、すべて声をふるわせて歌う。日本人は、決して声をふるわせない。」(ヨーロッパ文化と日本文化)
「我々は、クラヴォ(鍵盤楽器)、ヴィオラ、フルート、オルガン、ドセイン(葦笛)などのメロディによって愉快になる。日本人にとっては、我々の楽器は不愉快と嫌悪を生じる。」(ヨーロッパ文化と日本文化)
「通常、我々の間では、貴人の音楽は下賤の人の音楽よりも美しい。日本では、貴人の音楽は聞くに堪えない。水夫の音楽が我々を楽しませてくれる。」(ヨーロッパ文化と日本文化)
https://web.archive.org/web/20150610035350/http://www.ab.auone-net.jp/~koinyawa/azuchi3.html
雑音
「もしわたしがこれまで中国人のあいだに住んでいなかったとしたら、日本人はハーモニーやメロディーというものを知らない点では最たる人種だと、わたしは言ったことだろう。日本人にしろ、中国人にしろ、彼らがいわゆる音楽を奏でようとする時に発する雑音は、とうてい言い表せるものではない。」(大君の都)
「しかも、彼らはこれを一つの技芸とし、職業的な歌手や教師がいて、ヨーロッパのそれに劣らぬほど懸命に腕を磨いているのである。」(大君の都)
「音調の十中の九までが調子はずれと思えるような、西洋の音曲とは全く異なった一連の音程からなる日本の音楽にヨーロッパ人の耳を慣れさせるには、よほどの長い年期を必要とするだろう。」(一外交官の見た明治維新)
「日本の音楽は半調子のものが多く、しばしば同じような言葉を繰り返しながら、長音調から短音調に移り、最後は全く調子になっていない。従がって日本の音楽芸術は、我々が西欧において知っているものとは決定的に合致したところがない。」(絵で見る幕末日本)
好意的評価
「日本の音楽は、我々のものと比較しようがない。しかし、民謡のなかに優しい主題がみてとれた。同様に、日本人の耳が確かだということも認めねばならない。日本人は完全に斉唱で楽器を奏で唄う。そして、それらの旋律の時にはたいそう難しいリズムを正確に守るのである。」(スイス領事の見た幕末日本)
「日本音楽の音律をはっきり掴むことは困難であったが、しかし、この熟練した芸術家(三味線の先生)は、我々ヨーロッパ人の歌の調子に自分の三味線を合わせたばかりでなく、それらのうち若干を正確に模写して見せた。」(絵で見る幕末日本)
「日本の唄は美しいといえたものではないし、歌い手の声がたいてい甲高い鼻声であるにもかかわらず、ときおり覚えやすくて耳に快いメロディーがあって驚かせる。歌い手は三味線と呼ばれる三絃のギターを伴奏に使う。弦は指ではなく熊手型をした象牙の撥(ばち)で弾く。」(江戸幕末滞在記)
https://web.archive.org/web/20150610035646/http://www.ab.auone-net.jp/~koinyawa/bakumatsu13.html
私たちが今学校で習っている音楽は「十二音平均律」といって、ドレミファソラシの七音のあいだに五つの半音を作って、その十二音で音楽を構成する世界ですが、これはヨーロッパの、それも近代の生みだしたオタマジャクシの行進だそうです。一オクターブをもっと違う方法で区切る「音階」が世界中にはいっぱいあるそうで、とにかくドレミファソラシは世界共通の音階ではなく、西欧の限られた時代で使われる限られた音階だそうです。
そういわれると、私の頭に一つの忘れられない光景が甦ってきます。
大昔に国立劇場の邦楽公演に行ったとき、もうじき百歳になるという「人間国宝」のおばあさんが舞台の上で三味線を弾きながら歌っていて、それがあまりに音程が狂っていたので聞いていて気持ちが悪くなって、「なんでこんなオンチが人間国宝なの~?」って一緒に行った友人に言ったら、横にいたオジサンが「これが昔の日本の音程だよ」って教えてくれた。
あのオジサンは音大の先生だったのかしら?それとも邦楽のお師匠さま?…と今にして思うんですが。
しかし私は歌舞伎の舞台で長唄や清元や浄瑠璃をよく聴きましたし、能もけっこう見ましたが、あれほど音程が狂ってる~と気分が悪くなった経験はないので、それらの音曲はすでに西洋音階に変えられているのか、それともあれが特別の伝統芸能だったのか、思い返すたびに未だにもんもんと悩みます。
私の記憶に間違いがなければ、その音楽は「河東節」という伝統芸能だったと思うんですが…。
もともと微分音階であった日本に明治維新以降「十二音平均律」が導入されて、音楽がドレミファソラシで教えられるようになって、それ以前の音楽もすべて西洋音階に変えられたようなんですが、こんなに忠実に西洋音楽を取り入れて、三味線や太鼓や琴などの伝統的楽器を捨てたのは日本だけだったみたいで、最近ようやっと学校でも三味線やお琴が教えられることになったそうですが、ちゃんと教えられる先生、いるんかいな~?
アフリカ、アラブ、アジアの多くの国では今でも西洋音階を使わない、固有の音階で今も音楽を作っていて、そういう伝統音楽にロックやポップスを取り入れて大衆音楽を作って、そういうのをけっこうみなさん喜んで聞いている…らしいです。
日本人には「ファ」と「シ」の音感が無い。それを指摘したのは明治政府の伊沢修二だ。日本の音楽教育からファとシは取り除かれた。ヨナ抜き音階だ。 現在も「ド」や「ラ」を基音にすればファとシは音感できるが、それ以外の音を基音にするとファとシを正確に音感できる日本人は少ない。
日本には呂旋法という音階がありました。
— 盛本 成勝 (@morikatsu726) June 5, 2020
明治時代になって西洋の長音階にあてはめようとすると、ファ(4番目)とシ(7番目)が抜けることになります。
これをヨナ抜き音階とよびます。
童謡や民謡だけではなく、演歌や現在のJ-POPにもヨナ抜き音階で作られた曲が存在します。
吉田:シュメー女史のヴァイオリンで「春の海」を吹き込み,ビクターから出しましたが,何か舌足らずの感があります.音階の相違なんですが,半音のところがちょっとばかり上がっているんですな.洋楽の音階でやっていますから・・・
宮城:それは尺八とフリュートの差でもありますね.曲によって,フリュートを使うと音階がはっきりしすぎることがあります.だから日本式メロディーなんかには,フリュートはうまく合わないで,何かチンドン屋のようになってしまいます.尺八でないとおかしいですな.けれどもまた,はっきりしたものをねらっているときは,フリュートでやる方がいいこともあります.やはり尺八の曲を作らねばなりませんな.
・・・・
宮城:尺八とフリュートにはまだ問題が残されています.半音にしてもそうですし,平均律と純正調の違いもありますし,またピアノの半音と邦楽の半音とこれまた違うのです.チンドンやになるのはここにあるんですな
音楽評論家ピーター・イェーツの興味深い回想が引用されている。 「ある晩、この国(アメリカ)へ最近やってきた、日本の音楽家による筝(=琴)の 演奏を聞くために、ストラビンスキーと何人かを家に招いた。演奏家は平均律で調律された筝のための現代作品を選んで演奏を始めた。このあと、同じ調律で古典曲が演奏されたのを聞いて、ストラビンスキーは調律が楽器に合っていないと異議を唱えた。」(p204)著者自身、あるとき琴を純正調で調律してみたところ、「琴の胴体が自然に鳴り初め」て驚いたという