#11 人見知りは現代病なのかもしれない
私は旅行というものをしてこなかった。そういう習慣がなかったからかもしれない。
初めて旅行しようと思ったのは、大学生になって、2ヶ月という膨大な期間の夏休みを有意義に使おうと思ったのがきっかけだった。一人で沖縄に行き、1週間弱過ごした。
初めての一人旅。実際は現地の大学のプログラムにも参加したりして、孤独な時間は多くはなかったが、多くを学んだ。
それは、自分の知らなかった自分が、一人旅で出てくることだった。言わば、自分を縛る周りからの目、評価などはなく、何にでもなれるということだ。たとえ普段静かな性格の人が一人旅先でパーリーピーポーになったとしても、笑いだす人はいない。
私は自分を、人見知りだと思っていた。
けれども、沖縄に行った際には違った。初対面の人にも気兼ねなく話しかけて、とにかく一日中喋ってた気がする。
そこで自信がついたのか、今は人見知りの症状が出るのは減った。
このことから私が考えたのは、「人がいるから人見知りになるのではないか」ということだった。
旅行にて、いつもよりも社交的になって、自分からも話しかけに行く、というのは、一つの生きる知恵のようなものに見える。旅行でも一人でいたら、何かあった時にそれこそ大変なことになってしまうからだ。助けあったり、社会の中に自分を溶け込ませるというのは、誰にとっても必要なことなのかもしれない。しかし、そのためには、自分から行動を起こさないといけないのだ。
普段は違う。助けてくれる人がいて、たとえ人見知りでも、それが原因で身体の危機に陥ることはない。周りに人がいるから、言い換えるなら、自分をよく知る(と思っている)社会の中にいるから、人見知りになってしまうのかもしれない。
おそらく、周りから知っている人が消えたら、人見知りと自覚している人の多くが実際はそうでなかったと知ると思う。本当に根からの人見知りがいるとも思ってはいるが。
私の好きなドラマに「逃げ恥」がある。最終回のテーマは「私たちを取り巻く呪縛から解放される」だった。登場人物のみくりさんは、今まで多くの人に「小賢しい」と何度も言われて、低い評価をされたり、愛想を尽かされたりしてきた。
けれども最終回で、一番自分の小賢しさに苦しめられてきたと思っていた平匡さんは、「そんなこと一度も思ったことはありません」と言った。結局、小賢しいと思っていたのは自分自身だったのだ。
私たちはもしかしたら社会に、自分の性格を決められてしまっているのかもしれない。
その社会から与えられたラベルを、知らぬ間に、「これが自分」と許容しているのかもしれない。
私は、自分を「人見知り」だと思わないことによって、人見知りを克服したと言っても良い。実はこのようにして克服したことは、人見知り以外にも多くある。
「周りの人や社会を警戒し、憎め」というのではない。きっと、社会が自分にラベルを貼ったとしても、自分自身がそれを受け入れて、それに縛られない生き方をするなら、自由になれると信じている。
私は、常に旅人でありたいと強く願う。