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#13 土砂降りの雨であっても

ある日、お付き合いをしていた方とお祭りに行った。
電車で約3時間ほどの場所で、2日間にわたって行われる「ひたちなか祭り」。第30回という節目ということもあり、非常に賑わっている様子であった。浴衣姿の人も多く、地域全体で盛り上げているお祭りという雰囲気が感じられた。花火やドローンショーといったイベントも企画されていた。

しかし、雨が降ってきた。
最初はポツポツと。それから急に激しく降ってきて、降り続いた。傘をさしても足りないほどの大雨であった。道を歩くのに、水たまりを避けることは不可能で、靴は完全に浸水していた。

そんな中で、花火が上がったのは驚きだった。
「雨でも花火って上がるんだ。」
その不思議な体験を、ただ楽しんだ。

その後、帰りの電車で、楽しかった余韻に浸りながら自分のリュックの中身を見た時、ショックでしばらく固まった。
リュックの中身がすべて濡れていたのだった。

傘はさしていたし、リュックも多少の防水加工がされているものであったから、大丈夫だと勝手に思っていた。
本当に大事にしていたものがすべて濡れていた。聖書、デボーションブック、本、大切にしている小さなぬいぐるみ。本当に悲しかったし、悔しかった。

神様にこう祈りました。
「大事にしているものを大事に扱えていなくてごめんなさい。けれども、この経験を何か良いことのための経験としてください。」

帰りの電車は、非常に寒かった。全身濡れていて、ガクガク震えながら、避難するように家に帰った。
とりあえず寝たかったが、リュックの中身のものを乾かさないといけないため、除湿機と一緒にリビングに急いで置いて、すぐに寝た。

次の日も、その次の日も、リビングにそれらを置いたままだった。
怖かった。びしょ濡れになってしまったものを見るのが怖かった。その被害状況を確認するのは心苦しかった。書籍類は買い替えないといけないかもしれないと思った。
一言「神様が願うことが起こりますように」、そう祈ってから、一つ一つチェックした。

その結果、書籍類も含め、すべてにおいて致命的な被害はなかった。紙自体はフニャフニャになっている部分もあるが、読めないほどではなく、使えないほどでもなかった。感謝。

改めて、自分が大事にしているものは何かということを考えされられた。目に見えるものはすべて朽ち果てるが、目に見えるものに対する扱いを見ると、その人は本当はどんな「目に見えないもの」を大事にしているかがわかる。

僕が持っている「日々の光」というデボーションブック。聖書の聖句のみが記載されているが聖書ではない。僕の大好きな本の一つだ。
今回の被害で、別に読めないほどにはなっていなかったので、そのまま使っているが、誰かにプレゼントしたいと思ったために、追加で2冊、ネットで注文した。

次の日、家に「日々の光」が届いた。
翌日に届いていることに驚きながら、それを手にして疑問が湧いた。
「あれ?確か2冊注文したはずじゃなかったか?」
届いたのは1冊のみであったから、注文履歴を確認しようとしたら、父親がこう言った。
「それは、お父さんが買ったものだよ。」

正直、すぐには理解ができなかったが、確かに父親が注文していたことを確認した。つまりは、僕も父親もほぼ同じタイミングで同じ本を注文していたのだった。
「なんでこの本買ったの?」と聞くと、
「いい本だから。」と返ってきた。
いやいや、そういうことじゃなくて。

その後の会話で、やっとわかった。
僕がお祭りからびしょ濡れで帰宅した後、リビングに乾かすために置いてあった僕のデボーションブックを勝手に父親が見たらしい。それで、「いい本だ」と思ったのだという。

その本について、僕と父と「いい本だよね。」と語り合った後に、それを聞いていた母親も「だったら私もほしい」と言ったため、僕が注文したうちの1冊は母親のものになった。

「大事にしているものを大事に扱えていなくてごめんなさい。けれども、この経験を何か良いことのための経験としてください。」
こう祈った祈りは、予期せぬ方法で答えられた。土砂降りの雨でも、むしろその中で何を見るかの方が重要であったりする。
濡れたものを見て、悲しみ落ち込むこともできるが、それさえも良いことのために使われることを願うこともできる。僕の選択次第で、その後も変わると思う。

絶望的な状況下にあって希望を持つことは決して簡単なことではないが、誰しもがその機会を得ているし、その力は大きな影響を自らだけではなく他者にも与えるのだと信じている。

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