文法研究の世界:「覚える文法」から「考える文法」へ

「文法」と言われたらどんなものを想像するでしょうか。「未然・連用・終止・連体・仮定・命令」とか「あり・をり・はべり・いまそかり」とか、そういった決まり切った答えを暗記することが文法だと思ってはいないでしょうか?

実は、文法にはまだ明らかになっていないことがたくさん存在し、それについて「考える」ことができます。ことばについて考える、そんな文法研究の世界を紹介します。


Part 1 文法は誰もが持っている

「は」と「が」

次の例で、頭痛を起こしているのは誰か、を考えてみましょう。

(1) ジャイアンが歌うと頭が痛くなる
(2) ジャイアンは歌うと頭が痛くなる

さて、頭が痛いのは誰でしょうか?

(1)では「歌を聞いている周囲の人々が頭痛を起こしている」という意味になると思います。一方、(2)では「ジャイアンが頭痛を起こす」という意味になります。

この違いは、次のように図示することができます。

「が」と「は」の係り受け

(1)の「ジャイアンが」は「歌う」の主語であって、「頭が痛い」人物は別に存在します。対して(2)では「ジャイアンは」は「頭が痛くなる」にかかっています。

このような「係り受け」関係は次のような規則に整理できます。

「が」は直近の述語にかかる。
「は」は文末の述語にかかる。

ここでポイントになるのは、私たちは上記のような規則を意識していないにもかかわらず、規則的に文を理解している、ということです。文法のルールを明示的に知っているわけではないけれど、文法のルールに則って言葉を使っているわけです。このことは、私たちは頭の中に宿る能力として「文法」を既に身に着けている、ということを表しています。

「ヲ」と「カラ」

今度は次の用例を考えてみましょう。空欄を埋めるとしたらどんな助詞が入ると思いますか?

(3) 子供が部屋__出た

この空欄を埋める候補は2つあります。1つは「ヲ」、もう1つは「カラ」です。では、いつでも「ヲ」と「カラ」の両方を使えるかと言うとそういうわけではありません。(3)に「庭に」を加えた次例を検討してみましょう。

(4) 子供が部屋__庭に出た

この例では「カラ」しか使うことができません。「ヲ」を入れるとなんだか変な文になってしまいます。どうやら、「ヲ」と「カラ」の使い方には何らかのルールが潜んでいるようです。私たちはそのルールを意識することはできませんが、無意識のうちに規則的に言葉を使っているようです。

このルールについて、三宅(2011)は次のような規則があると分析しています。

[着点]をも同時に含意する場合は、[起点]を対格(=ヲ)で標示することはできない。

(三宅(2011: 121))

このルールによると、移動のゴール(例:「庭に」)があるときには、「ヲ」が使えず「カラ」を必ず用いるということになります。

ラ抜きことば

今度は次のような例を考えてみることにしましょう。

(5) このトマトは苦手な人でも食べられる

この例を「ラ抜きことば」にして次のように言うことは、(ら抜きことばを許容する限りにおいて)自然です。

(6) このトマトは苦手な人でも食べれる

ところが、同じ「食べられる」でも、(7)を(8)のようなラ抜きことばにすることは許容できないのではないでしょうか。

(7) 先生が食事を食べられる
(8) 先生が食事を食べれる

つまり、ラ抜きことばは、ある一定の条件のもとでのみ起こる現象だ、ということです。では、その一定の条件とはなんでしょう?

実は、助動詞「られる」には様々な意味・用法があります。

(9) 山田が褒められる [受身]
(10) この野菜はまだ腐っていないから食べられる [可能]
(11) 先生が講演会で話される [尊敬]

このうち、「可能」の意味の「られる」だけが、ラ抜きことばを許すのです。国語の時間に覚えた助動詞の意味を忘れ去ってしまっても、無意識のうちに、私たちは文法のルールにしたがって「ラ抜き」をしているわけです。

研究対象としての文法

さて、ここまで私たちは

①「は」と「が」の係り受け
②「ヲ」と「カラ」の使用条件
③ラ抜きことばの条件

について見てきました。これらの例は「私たちの言語使用は常に無意識のルールにしたがって、規則的に行われている」ということです。

この、言語の中の秩序だっている部分を見つけ出して、私たちの頭の中に根付いたことばのルールを明らかにすることが、言語学・文法研究の目指していることになります。言語学者たちは、実際の言葉の用例を観察しながら、その背後にある一般的なルールを探っているのです。


Part 2 文法論は考える学問

Part 1では、私たちは皆、無意識のうちに一定の法則にしたがいながら言葉を用いているということを見てきました。そして、その法則を明らかにしようと「考える」のが文法論なのだ、ということを確認しました。

Part 2では、そんな言語学者たちが悪戦苦闘して考えているリアルな姿を、少し垣間見てみたいと思います。ここでのテーマは「主語って何?」です。

主語って何?:第一案

さて皆さん、「主語って何ですか?」って聞かれたら何と答えたらいいでしょうか。

そう聞かれたら、真っ先に「国語の教科書に書いてるよ!」と言いたくなるかもしれません。では、中学国語の教科書(光村図書『国語1』)の記述を見てみましょう。

文の中で「何が」「誰が」にあたる文節を主語という。

『国語1』光村図書 (244ページ)

教科書の答えで問題ないでしょうか?

一見すると、この定義は主語の定義としてうまく機能しているようにも見えます。ところが、実は、「〇〇が」という形であるにも関わらず、主語とは呼びにくいものがあります。

(12) 水が飲みたい

「僕は水を飲みたい」とも言えるように、「水(が/を)」は主語というより目的語と言いたいように思えます。ところが、「〇〇が」を一律に主語と言ってしまうと、(12)の「水が」も主語だと言わなければいけないことになります。これは、なんだか日本語母語話者としての感覚にはそぐわないように見えます。

更には「〇〇が」という形をしていないにもかかわらず、主語と呼びたくなるようなものも存在します。

(13) 私からこの件について説明します。

(13)の例であえて主語は何かを問われたら「私から」が主語だ、と言いたくなるのではないでしょうか?ところが、もし教科書の主語の定義を採用したとしたならば、「私から」を主語だと呼ぶことは難しくなってしまいます。

以上の検討から分かるのは、私たちは「主語」の定義についてもっと深く「考える」必要がありそうだ、ということです。

主語って何?:第二案

主語の定義について、別の案を考えてみましょう。例えば、次の定義ではどうでしょうか?

主語とは、文があらわす出来事の行為者・動作主を表す要素である。

この定義をもとに、先ほど挙げた例を再検討してみましょう。

(14) 水が飲みたい (=(12))
(15) 私からこの件について説明します (=(13))

(14)の「水が」は飲むという行為の動作主ではないため、主語ではないと言えます。一方、「私から」は説明するという行為の主体ですから、主語だと言えます。このように見ると、動作主性に基づく主語の定義は、「〇〇が」を主語と見なす教科書の定義より上手くいっているように見えるかもしれません。

しかし、この第二案にも問題があります。というのも、この定義では以下のような例の主語を主語だと言えなくなってしまうからです。

(16) 私は大学院生だ
(17) 妹は母に似ている
(18) 私は教授に褒められた

(16)や(17)では「私だ」「妹は」が主語になっているように見えます。ですが、これらの文は動きのある出来事を描写しているとは言えません。むしろ状態や属性を表す文です。したがって「出来事の行為者」を主語と定義する第二案では、これら状態的な文の主語を主語と呼ぶことができません。

受身文の(18)も問題になります。というのも、この文の行為者は「教授(に)」ですが、これは主語といいにくいように思われるからです。むしろ、行為の対象である「私は」が主語であるように見えます。

このように、動作主性によって主語を定義することにも問題がありそうだ、と分かります。

主語廃止論

このように考えていくと、だんだんと「主語を定義するなんて不可能なのではないか?」という気がしてきます。そして実際に、日本語において主語という概念は定義不可能で不必要なものなのだ、という論者がいます。

その代表が三上章で、彼の「主語廃止論」は日本語研究の世界で一定の知名度があります。三上は次のように言い、日本語に「主語」という概念は不必要だと言います。

主語は、主格が或る特別な働きをする国語において、その主格に認められる資格、としか考えられないものである。[中略]日本語においては主格に何ら特別な働きが見られない。従って、主語というのは日本文法にとって有害無益な用語であるから、一日も早く廃止しなくてはならぬ。

(三上(1953: 73-74))

三上の論点は、日本語の文法事項の中に「主語」という概念を参照すべきものは存在しない、という点にあります。これは、「主語」という概念が有効である英語と比べるとよく分かります。英語では、主語と動詞が「一致(agreement)」を示し、主語の人称によって動詞の語形が変わります。いわゆる「三単現のs」などがこれにあたります。

(19) You are kind.
(20) He is kind.

英語の「主語・述語の一致」は、英語の文法において主語と言う概念が有効であることを示します。対して、このような主語の有効性が発揮される文法が日本語には存在しないのだ、と三上は言うのです。

主語必要論

三上の議論はとても急進的ですが、現在でも一定の支持者がいる議論です。これに対して、日本語文法にはやはり「主語」という概念が必要だ、と考える人たちがいます。彼らは、英語の「一致」に相当するような、主語と言う概念を必要とする文法事項が日本語にも存在すると主張します。

そのような文法現象の例として「尊敬語化」を挙げることができます。尊敬語の敬意の対象は常に文の主語に対応するのです。

(21) 山田先生は水がお飲みになりたい
(22) 山田先生から身の上話をお話になった
(23) 山田先生はT大学の教授でいらっしゃる

(21-23)の例では、どれも「山田先生」が敬意の対象になっています。したがって、(21)の「水が」は主語ではないと言えます。対して、(22)の「山田先生から」や属性を表す文(23)の「山田先生は」は正しく主語だと判定できます。

主語論争のポイント

以上のように、「主語」という用語をめぐっては主語廃止論から主語必要論に至るまで、非常に大きな議論があります。「主語」というと学校の教科書に書いてある当たり前の、自明の概念であるかのように思えるかもしれませんが、実のところ、その定義は見解の一致を見ていないところがあるのです。

こうした議論の中で重要なのは、言語現象を論拠にして、いかに有意義な一般化が得られるか、という点です。主語廃止論は、主語という概念からは有意義な一般化が得られないと主張します。一方主語必要論は、尊敬語などを捉える上で有意義な一般化が得られる、と主張しているわけです。

「主語」という文法用語1つとっても、このように考えるべきことがたくさんあるのです。そこで必要なのは教科書に書いてある答えの暗記ではなく、よりよい説明を求め「考える」ことに他なりません。

私たち人間が言語表現を生み出したり意味理解したりする、そのしくみを説明するものとして、最も妥当なのはたくさんの考え方のうちどのようなものなのかを論じること、それが文法論の目的だと言えます。このように、文法論とは、決して覚えるだけの学問ではなく、考える学問なのです。

(天野(2011: 115))

おすすめ文献

さて、ここまで、私たちは無意識のうちに文法のルールに従っていること、そのルールを「考える」学問が言語学・文法論であることをお話してきました。

もし、この記事を読んで言語学に興味を持ってくださったならば、以下に挙げる教科書等を読んでみることをお勧めします。ぜひ、あなたも楽しい言語学ライフを!

〇言語学・日本語学一般
 大津由紀雄(編著)(2009)『はじめて学ぶ言語学』ミネルヴァ書房
 益岡隆志(編著)(2011)『はじめて学ぶ日本語学』ミネルヴァ書房
 庵功雄(2012)『新しい日本語学入門[第2版]』スリーエーネットワーク
 西光義弘(編)(1999)『日英語対照による英語学概論[増補版]』くろしお出版
 衣畑智秀(編)(2023)『基礎日本語学[第2版]』ひつじ書房

〇現代日本語文法の概観
 井島正博(編著)(2020)『現代語文法概説』朝倉書店
 日本語記述文法研究会(編)『現代日本語文法』シリーズ(全7巻)
 益岡隆志・田窪行則(2024)『基礎日本語文法[第3版]』

〇その他オススメ
 開拓社 言語・文化選書

参考文献

〇「は」と「が」の係り受け
野田尚史(1986)「複文における「は」と「が」の係り方」『日本語学』Vol. 5 (2), 31-43.

〇移動動詞の対格(ヲ)表示
三宅知宏(2011)『日本語研究のインターフェイス』くろしお出版

〇ら抜き言葉
金水敏(2003)「ラ抜き言葉の歴史的研究」『言語』34 (4), 56-62.
国広哲弥(2010) 『新編日本語誤用・慣用小辞典』講談社

〇主語廃止論・主語必要論
柴谷方良(1978)『日本語の分析』大修館書店
三上章(1953)『現代語法序説』刀江書院 [(1972)くろしお出版より復刊]

〇文法論
天野みどり(2011)「第6章 文法」益岡隆志(編著)『はじめて学ぶ日本語学』ミネルヴァ書房

付記

この記事の内容は、2024年11月06日にオンラインで行われた「みんなのセミナー」の講演内容に修正を加えた上で書き起こしたものになります(運営:東北大学SCC(Student Community College))。

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