読書会・勉強会のすすめβ(3)―予習のポイント
第1回の記事では読書会の概要と意義について、第2回の記事では読書会の進め方の詳細についてそれぞれ紹介してきました。第3弾となる今回の記事では、読書会の主要なパートの1つである「事前の予習」にフォーカスして、充実した予習に必要なポイントをいくつか挙げていきたいと思います。そのポイントは
①論理関係の整理
②専門用語の確認
③引用文献の確認
④内容の批判的検討
の4点です。
①論理関係の把握
読書会の予習と言うからには、当然、題材とする文献を事前に読んで内容を把握しておくことが求められます。しかし「内容を把握」と口で言うのは簡単ですが、実際に取り組んでみると案外難しいものです。読んでいるときには分かったつもりになっても、いざ当日の議論に挑むと分からないことだらけでちんぷんかんぷん、なんてこともあります。
このような事態を避けるために意識すべきポイントとして「論理関係の把握」に努める、ということが挙げられます。論理関係とは、概略「主張と根拠のつながり」のことだと考えて良いでしょう。つまり
「①筆者は何を言いたくて
②そのためにどんな理由を提示していて
③主張と根拠の結びつき方はどのような形をとっているのか」
に着目する、ということです。
具体的な事例を挙げてみましょう。以下は、僕が以前執筆したオンライン記事(「文学部生き残り大作戦β―『である学問』から『する学問』へ」)の内容の抜粋です。
それでは、言語学は言語教育に対してどれほど貢献してきたのでしょうか。このことについては、厳しい現実を受け止めざるを得ないように思われます。というのも、言語学者自身が、自分たちがあまり教育に関与していないことを認めているからです1。たとえば「現在の英語教育は語学のスキル習得ばかりが重視されていて、ことばそのものの面白さを伝えきれていないのでは」という文脈の下で、次のように述べています。
[引用は省略]
ここで指摘されているのは、「言語学は(広義の意味で)役に立つこと自体を放棄してきたのではないか」ということでしょう。
もちろん、言語学を広く見渡せば外国語学習の仕組みなどを研究する応用言語学、外国人への日本語教育を研究する日本語教育学など、教育のまなざしを持った分野も存在しています。けれど、これらの「教育を志向した研究」と、純粋に「ことばそのものの仕組みや特徴を解明しようとする研究」との間の接点は希薄と言わざるを得ません。後者の分野に関する大学教科書等で、言語教育に関する内容が希薄であることは、このことを物語っているように思われます。
このことは「役に立ってはいるが、その説明が不十分だった」とは意味合いが随分異なります。そもそも役に立たせる努力を怠っていたとなれば、言語学者(特に、言葉そのものの仕組みを研究する言語学者)の責任はより重いと言わざるを得ないのではないでしょうか。
(強調は引用者による)
この引用箇所の論理関係、すなわち「主張と根拠の結びつき」を整理するとどのようになるでしょうか。
この文章の主張は「言語学は言語教育に貢献することで”役に立つ”という責任を放棄してきた」ということです。その根拠として①言語学者自身の振り返りの引用(上記引用箇所では省略) ②言語学教科書に言語教育に関する領域の記述が少ない という点を挙げています。
上記のような「主張」と「根拠」を抜き出すことは内容整理の第一歩です。ここで、さらに進んで「主張と根拠の論理的結びつき方」に目を向けることができます。つまり、根拠がどのようにして主張を支えているのか、ということを考えるのです。
この文章で、根拠は直接主張を支えることはできていません。小難しく言うと、演繹的論証になっていないのです(演繹的論証については、僕が以前書いた記事「演繹法―学術的論証のための基礎知識」で解説をしているので参考にしてください)。
この文章の根拠は「主張が正しいとすれば、きっとこうなっているに違いない」という予想があり、その予想が実際に実現していることを提示するもので、仮説演繹法という名前で知られているものです。ポイントは、上記の引用箇所は、必ずしも仮説演繹法のセオリーに従った言葉遣い・書き方になっていないということです。根拠と主張の結びつき方は、本文の言語表現とぴったり一致しているとは限らないので、その都度見直して、整理する必要があります。たとえば、次のようなまとめができるでしょう。
[主張] 言語学者は”役に立つこと”を放棄してきた。
[予想] 言語学の領域で、役に立つ成果物(例:言語教育に関する研究等)が少ない。
[事実=根拠] 言語学の教科書で、言語教育に関する内容が少ない。
このまとめは
①原文の言語表現をそのまま使っているとは限らず
②本文の話の流れを、論理関係に従って適宜組み替えている
ものです。ただ本文の大事そうなところを切り抜いてパッチワークを作るのではなく、内容上、特に論理関係上の必然性に従い、また適宜自分の言葉で内容を整理し補いながらまとめることが重要です。
②専門用語の確認
読書会、特に専門文献を扱うタイプの読書会では「専門用語」を事前に調べておくことも必要です。特に、その学問分野の専門用語については、専門分野ごとの用語集や解説書等を利用して専門用語の定義や使い方について確認しておくことが求められます。
また、1つの単語が常に同じ「ニュアンス」で使われているとは限らない、ということにも注意する必要があります。たとえば、言語学の世界においては「主語(subject)」や「文(sentence)」といった用語が、時に特別な意味合い・定義を伴って使われることがあります。同じ用語であっても、使う人や文脈、研究上の立場によって言葉の定義が変わることもあります。ですから、単なる用語集の意味だけではなく、その時々の文脈に応じた使われ方を意識して考える必要があります。
更に、一般に専門用語とは思われないような言葉も、その文脈に即した特別な意味を持つことがあります。先ほど、論理関係の説明で用いた文章を例に挙げると「役に立つ」という言葉がその例になります。先ほどの引用箇所に先立って、元の文章では次のように「役に立つ」という言葉の定義を検討しています。
ここで「役に立つ」ということばは、少なくとも2通りに解釈できると思われます。1つは「人生を豊かにする」「価値規範や倫理観を提供する」などのことを含む広義の役に立つ。もう1つは「金になる」ということに焦点を当てた狭義の役に立つです。一般に「文学部が役に立つ」と言うときに念頭に置かれているのは広義の役に立つでしょう。
この文章では「役に立つ」を広義のものと狭義のものに分けています。それぞれ、広義の役に立つは「人生を豊かにする」といった意味で、狭義の役に立つは「金になる」といった意味で用いています。このように、特定の専門用語ではないとしても、その文章中で特別な意味合いや定義を与えられている言葉についても注意が必要です。
③引用文献の確認
題材として使っている本が別の文献を引用している場合、引用されている元の文章にあたってみることも時には必要です。これも、実例をもとに考えてみましょう。まずは「間接引用(引用文の内容を、自分の言葉で要約・整理して引用すること)」の例です。
サイードは1978年に『オリエンタリズム』という本を著し、文芸作品・学術文献に、西洋による東洋に対する認識が投影される諸相を分析しました。その分析を通して、西洋が東洋に対して抱いてきた認識が帝国主義や植民地主義を正当化させてきたと批判的に論じています。サイードの『オリエンタリズム』に関する分析は、フランスの哲学者ミシェル・フーコーの歴史的な分析手法が参照されていることもポイントです。フーコーは、歴史的資料を調査し、「語られること」と「語られないこと」の差異や配置を分析し、日常に偏在する「権力」を批判的に読み解く術を提示した哲学者として知られます。
(「批評―「わたし」と「歴史」に対する批判的対峙」より引用; 強調は引用者による)
この文章では、サイードの『オリエンタリズム』という本が引かれています。この引用箇所によると、サイードは「西洋が東洋に対して抱いてきた認識が帝国主義や植民地主義を正当化させてきたと批判的に論じてい」ると言います。
このサイードの理解は一般的かつ妥当なものでしょう。しかし、常にそうだとは限りません。もしかすると、サイードについて何らかの誤解をしていて、誤った理解のまま間違いを含む要約をしている可能性もあります。間接引用はあくまで引用者の理解を反映したものであって、引用された原典の内容を忠実に写し取っているという保証は原理的にはありません。ですから、その引用されている内容が本当に正しいかを確かめるためには、原典に当たって「自分の目で」内容を確かめる必要があります。加えて、間接引用は情報が圧縮されているため、詳細な論理関係や具体例が省かれている場合もあ多くあります。そのような、部分を確かめる意味でも、原典に直接あたってみることは大切なことです。
では「直接引用(引用箇所をそのまま抜き取ってくる引用形式)」の場合はどうでしょうか。結論から言うと、直接引用の場合も原典にあたってみることが必要です。その理由は「引用されていない部分」に大事な情報が隠れている場合があるからです。
直接引用は、引用者が自らの議論にとって必要な部分を「選んで切り取る」引用形式です。普通は、議論をするのに必要十分な分量を引用しますし、そういう暗黙の紳士協定が読者と筆者の間にはあります。しかし、筆者が自分に都合のいい部分だけを切り貼りしている可能性は常に付きまといます。あるいは、たとえ悪意が無くても、筆者が引用すべき大事な部分を見落としている可能性もあります。また、筆者にとって「大事な部分」と、読者が「自分の理解を深めるために読みたいと思う部分」が完全に一致している保証もありません。
実際に直接引用された文献の原典にあたってみると、引用箇所には含まれていない具体例や詳細な議論があり、大いに理解が深まる、ということもあります。また、引用箇所の内容を、後の部分で覆したり、修正していることもありえます。引用箇所だけを切り抜いて見た場合と、前後の議論の流れを踏まえてみた場合でずいぶんと印象が変わった、ということも無きにしも非ずです。
現実問題として、引用されているすべての文献を100%読みこなしてから読書会に挑む、というのは難しい部分もあるかもしれません。完璧主義になるとかえって読書会の実現を妨げてしまうことも有ります。しかし、文章の本筋にかかわる部分での引用については、引用箇所と+α(その前後など)くらいは目を通しておいた方が良いでしょう。
④内容の批判的検討
以上の3つのポイント(論理関係の把握、専門用語の確認、引用文献の確認)をきちんと行えば、ある程度は文章の内容をフォローできると思います。これに加えて、当日の議論で取り上げるべき論点・疑問点を洗い出すことができれば、百点満点の予習だと言えるでしょう。こうした論点の洗い出しは「内容の批判的検討」と言い換えて差し支えないものでしょう。
批判については『批判―学術的議論における基本的作法と批判的思考研究』の記事がよくまとまっており参考になります。この記事では、批判という行為を「研究における論証の妥当性を高めていくための指摘」という風にまとめ、次のような行為を批判という営為の具体例として挙げています。
・先行研究の知見を正確に踏まえているか
・先行研究の問題点・課題をどのように位置づけるか
・問いの設定は妥当か
・主要な概念を適切に定義しているか
・論述する方法・分析は適切か
細部は元の記事に委ねますが(直接引用でも引用元に当たるべし、というのは既に述べた通りです!)、上記のポイントは、既に述べた「論理関係の把握」「専門用語の確認」「引用元の確認」と重なる部分があることは注目に値します。
・主張と根拠の結びつきは妥当か
・専門用語の定義は適切か。またその定義に正しくしたがって言葉を使っているか
・引用元の内容は適切に理解されているか
といったことは、内容の批判的検討において不可欠の事柄です。あるいは、これらの内容を確認する中でよく理解できない部分があれば、その「分からない」という感覚が議論のきっかけを作ってくれます。というのも、その「分からない」という疑問が他の参加者の「分かったつもり」を暴き、より深い理解・議論を可能にしてくれることがあるからです。
まとめ
以上の内容をまとめると、読書会のための「事前準備・予習」のポイントは大きく4つあると言えます。
①論理関係の整理
②専門用語の確認
③引用文献の確認
④内容の批判的検討
このうち①~③は、特に文章の内容を正確に理解するために必要なものです。一方、④は内容の妥当性を吟味し、論点・疑問点を洗い出すもので、やや発展的なものだと言えます。
こうした予習を、常に完璧に行うことは難しいものです。そもそも、1人ですべてを完璧にこなすことができないからこそ、読書会を開いて仲間と協力して文章に立ち向かうわけですから、不完全なところがあって当然です。しかし、不完全ながらも「自力で出来るところまでは自分で頑張る」こともまた大切です。そうでなければ、読書会の議論は活性化しません。周囲が予習してきている中、自分一人が予習をしなければ、周囲の議論の流れを理解することさえままならないでしょう。
各人が自分ができるベストを尽くし、その成果をシェアしあうところに読書会の大切な核があると言えます。何の準備もせず、ただ人の成果を聞くだけでは、読書会の真の価値を十分に享受することは難しいのです。その意味で、読書会というのは「自立的・自律的な学習者が出会い、学びを交換・共有することで、より豊かな学習を実現する場」と言えるでしょう。独立した個人が、自立していてもなお集まるというところに、読書会という場の重要な側面、1つの本質があるのです。
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