とびっきりを見つける
私は好き嫌いこそがその人を形成する要素で、好き嫌いの認識が多いほど人生が濃く豊かになっていくと思っています。
「嫌い」との付き合い方が自分の感情コントロールにも大切だととも思っているのですが・・・やはり「好き」をいっぱい感じたい、味わいたいですね。
「好き」を味わうためには勉強したり、知識や経験を得たり、場合によってはそれが努力を要することも、必要なんだと感じています。
ぼぉーっと素のままの自分では物事は流れ去って行って、心のどこにも引っかからないことすら多いのではないかと思います。
「好き」は感じるものではあると思うけれど、何も知らないままではそのものの良さも本質も、もしかしたら存在にすら気づかないのです。
このことに気づいたのはお茶のお教室です。
私はお作法を学ぶのではなく、お茶そのものを楽しむ立礼のお教室に参加しているのですが、最初はちんぷんかんぷんです。
お作法ができるとか知っているとか関係なくても、ちんぷんかんぷん。
楽しみ方が分からないのです。
皆が〇〇焼と言っているのを聞いて「ふ~ん。〇〇焼なのかぁ」と知るところからスタートです。
お茶にまつわる歴史的なお話を聞いても歴史の授業のようで遠い昔話みたいでした。
それが、もう6,7年(!!)続けているうちに、「このお茶碗私の手にピッタリ」「このちょっと入った金彩が天才的だわ」「利休さんってホントにいた人やな」とか・・・言ってみれば自分事として楽しめるようになってきているのです。
おそらく、知識と経験が私の中の「好きの種」を刺激してくれて、私自身の尺度で捉えられるようになって「好き」を探して見つけて楽しめるようになった、そんな風に思います。
こんなことに気づいて、さらに気づいたことは『「やってみたことがないからやりたくない」なんてモッタイナイ。興味がないんじゃなくて、私はただ知らないだけかも。今も好きなモノはたくさんあるけれど、もしかしたら未知の中にとびっきりが眠っているのかも。』こんなことです。
自分のとびっきりってどんなものだろう?
となると、私の好奇心の対象は私の心で・・・ということは私のとびっきりって私なのかも(笑)