「荒木博行Book Cafe」にて対談をしました
荒木博行さんがVoicyで行っている「Book Cafe」にて対談をしました。
自分の本について対談をするというのは非常にありがたいことで、自分が書いたものを読んだ読者の視点や言葉を通じて、自分自身の考えを捉え直すという良い機会になるからです。
前編
前編では、私自身の人間観のようなものについて関心を持っていただき、精神障害ケアの領域におけるフィールドワークから学んだこと、学んでいることなどにもお話しました。
前篇はこちらです。
後編
後編では精神障害ケアのパンフレットにも書かれている言葉である「困った人は、困っている人」という言葉を紹介しながら、変革に対する対話的なアプローチについても述べました。
そこから、構造的無能化のメカニズムについての説明、ハイフェッツの適応課題という概念についての少しこれまでと違う説明も行っています。
私は度々講演で、変革するのは守るべきものを守っていくためのものだ、とお話をするのですが、それはつまり、守るべきものについての適応の道を探っていくことが変革だ、という意味です。
それは簡単には見つからないかもしれず、また、複雑なプロセスを経なければならないために時間がかかることもあります。なので焦らず行いたいものです。そのようなメッセージで締めました。
お話してみて思う、変革とはなにか、ということについて
前編の回を聞いてくださった方の感想に、変革についての認識を新たにした、というようなものがありました。
その感想は結構嬉しかったのですが、どういうことかといいますと、この本で述べている変革は、場合によっては、その道中においては変革だという認識が生じないことすらあるかもしれない、ということです。
私は本の中で度々、「地味」という言葉を使っているということをある方から先日指摘を受けたのですが、私の本で書いていることはとても実際は地味です。当事者としても、これが変革だと思って取り組めるほどにも明確な認識を持ちにくいものかもしれません。
ですが、それは慢性疾患的な状況に対して、日々の習慣をどう積み重ねるかという話ですから、そういうものです。
前編で述べているのですが、このような変革は実際にやっている過程においては、なにかうまくいかないという認識の下で、これが課題だと分かり、その認識に立って、少し変化を加えてまたやってみたら、本当の課題はこれだったのだとわかり、それを修正してまた取り組んだらまた違う課題が見え、ということを繰り返していく、いわばずっと「失敗」し続ける過程でもあると言えます。
それは別な見方をすれば、変革が頓挫し続ける過程に見えるかもしれないわけです。
しかし、それを例えば3年なり5年なり続けて振り返ると、だいぶ遠くまで来たなと実感することがある。そういうことを地道に積み重ねることが私の変革として述べていることです。
なので、これをやれば会社が変わる、というような話を期待されている方は申し訳ないのですが、私の本にはどこにもそういう答えは書いてありません。
ですが、ある意味でちゃんと失敗し続けられること、それは即ち、対話(話す意味での対話ではなく、見えていない問題・課題を発見し続けるという意味での対話)を続けること、すなわち変革を続けるということ、その過程そのものが変革なのであるということなのです。
なぜならば、課題が分からないこと、言い換えるならば、「失敗することに失敗している」ことが、今日における理屈は通っているように見えるが、実感の持てない変革そのものの正体だと私は思うからです。
サイゼリヤの正垣さんの言葉を思い出しました
そう言えば思い出した言葉があります。
サイゼリヤの正垣さんが、ずっと前に日経新聞でこんなことを書かれていました。
成功しているということは、ある意味で「失敗」という今やっていることを改めることを見つけることに失敗している、つまり、「失敗に失敗しているのが成功」だと述べているように私は解釈しました。
この失敗に失敗している成功している状態というのが、ある意味で構造的無能化そのものでもあります。言い換えると、「成功に成功すること」を繰り返しているという失敗が、構造的無能化なのです。ですが、もちろん、当事者自身もそれに喜んでいるわけではなく、なにか嫌な予感がするし、違和感があるし、元気も出ないという状況にある。これが慢性疾患的な状況と言えるでしょう。
ここからどう一歩抜け出していくか、それを私は『企業変革のジレンマ』で書きたかったのだなと改めて思います。
自分の本について他の方と対談しながら考え、感想をもらえるというのは貴重な機会だなと思いました。改めてこのような機会をいただきましたこと、荒木さんに感謝いたします。