やまゆり園事件で思ったこと
またしても更新が空き、「早く更新を」と思いながらも、昨日あったやまゆり園事件の公判に際して読んだ記事で感じた今の気持ちも記しておきたい。
夫も今や障害者。やまゆり園事件の被告のような考えがあることは、他人事ではない。
失くして良い命なんてない。この事件は言語道断であることが大前提。
一方で、施設にいた/いる方は、多少なりとも自立した生活が送れていたのだと思う。意思を表す、食事を咀嚼して飲み込む、トイレで排泄すると言ったレベルでは。
夫は何一つ出来ないままもうすぐ2年が経つ。医師からは症状は固定した、拘縮を遅らすことしか出来ないと言われている。
事件ではなくて天災が起こったとして、避難はリハビリ病棟からされるだろう。夫のいる療養病棟は、「後回し」。それは命の選別になるのか。
災害現場では、負傷者のトリアージが行われる。それと同じだと思う。限られた医療従事者によって、より助かる人を多く助けることに、批判の声はなくなったのではないか。勿論、災害で家族を亡くした遺族は、助けてほしかったと思うかもしれない。それでも混乱を極める、医療従事者も少ない中、どうしても「選ぶ」ことにはなってしまう。「選び方」の問題はあるにせよ、トリアージが存在することは納得せざるを得ない。
その時、人工呼吸器など医療器具に繋がっていない見た目健康な夫は、どう判断されるのだろう。
怪我がなかったとしても意識障害という重大なハンデによって、優先順位は低い気がする。一方で、同じく遷延性意識障害の患者の中で、比較的若い夫は高齢の方よりは優先されるのかもしれない。
栄養剤がない場合、餓死する。吸引器具がない場合、痰が詰まって窒息する。生き埋めになった場合、居場所を伝えられず見過ごされる。衛生管理が行き届かない場合、感染症などに罹る。体位変えてもらえない場合、褥瘡が出来る。
どれも苦痛が伴う。
災害は極端かもしれない。でも、ほとんどが今すぐ起こってもおかしくない最期。病院がきちんと管理してくれるからこそ2年も見た目健康なまま生きている。
ただし迎える最期はいずれかだろう。夫の最期を安らかなものに出来ないものだろうか。生きながらえるだけが最善なのだろうか。
災害も事件もないのが一番だけれど、自分と子ども達の同様の心配をしつつ、夫の心配もするには、医師の言う「20年」は長い。
くしくも今日は夫の誕生日。また季節は一巡した。