Interview vol.15 川内有緒さん(ノンフィクション作家)「ロッコク・キッチン」で、 そこで暮らす人の日常をできるだけフラットに伝えたい
第15回は、2023年に4月に三好大輔監督との初の長編ドキュメンタリー映画『目の見えない白鳥さん、アートを見にいく』を当館で公開し、現在は新作ドキュメンタリー/書籍「ロッコク・キッチン」を準備中のノンフィクション作家、川内有緒さんです。
■細く長く続いた『目の見えない白鳥さん、アートを見にいく』上映活動
―――当館での上映以降も日本全国に上映が広がった映画『目の見えない白鳥さん、アートを見にいく』ですが、上映活動を続けてこられての感想を聞かせていただけますか。
川内:最初は何館ぐらい映画を上映してもらえるのかわからず、暗中模索のまま自主配給をはじめたのですが、元町映画館とシネ・ヌーヴォは最初の東京上映を終えた後、比較的早いタイミングで上映していただきました。九州ツアーや東北ツアーをやり、いろいろなミニシアターを巡ることができて楽しかったです。
―――川内さんは人気ノンフィクション作家なので、日本全国に著書のファンはいると思いますが、映画は映画館で上映されなければ観客と出会うことができませんから、できるだけ全国でという想いがあったのでは?
川内:上映館が決まると「やった!」とは思うのですが、上映開始から1年以上経つと、もうそろそろ舞台挨拶は終わりにしようと一区切りしたいという気持ちもありました。でも、いざ決まると、劇場に足を運びたくなってしまう。出町座とセットで名古屋の刈谷日劇に舞台挨拶ツアーをしたときは、古いビルの上階にあり、街自体もシーンとしていたので動員を心配していたのですが、実際は劇場の方が温かく迎えてくれ、すごくたくさんのお客さまが来てくださったんです。
最後に劇場の方と打ち上げをしたとき、「別の劇場にも(上映を)頼んでみます」と応援してくださったことから、伊勢の伊勢進富座でも上映できることになりました。岐阜は他の地域と同様に、かつてはたくさんあった映画館が最近すごく少なってきたので、最後の劇場である岐阜CINEXを盛り上げたいという気持ちがすごくあり、地元の新聞社が映画クラブという形でタイアップして、宣伝にも力を入れてくださいました。
―――自主配給で、上映場所での宣伝を頼める先もない中で、各劇場とも自主的に作品の宣伝に力を入れてくださり、他の劇場を紹介してもらうこともあるというのは、とてもいい流れですね。
川内:この劇場に行けば、次が決まって…という形で、昨年まで細々と上映が続いていたんです。北海道のシアターキノではドキュメンタリー映画の1日限定上映をやっており、その枠で上映してくださったり、鹿児島もガーデンズシネマで1日間限定上映をしていただき、盛り上がりました。また、埼玉の深谷シネマも印象的で、蔵を改造した映画館なんです。
■上映終了後も素材を預かり、かけてくれた沖縄・シアタードーナツ
―――それぞれのミニシアターのことを鮮明に覚えていらっしゃるんですね。
川内:舞台挨拶で結構まわりましたし、支配人やスタッフの方と打ち上げもやりましたから。沖縄のシアタードーナツは本当に楽しかった。宮島支配人の奥さんが毎朝ドーナツ作ったドーナツを販売しているし、ドキュメンタリー映画『人生フルーツ』をもう5年間ぐらい上映しているんです。今でもお客さんが入っているそうで、それだけ上映したらようやく監督さんが来島がてら来てくださったとお話されていました。舞台挨拶の帰り際に宮島さんから「上映素材をずっと預かっていてもいいですか?」と聞かれたので、「どうぞ、どうぞ」と答えると、「たまに上映スケジュールに空きがあれば、かけてもいいですか?」とおっしゃって。実際、上映期間が終わった後、何回もかけてくださっているそうです。
―――へぇ!そんな上映パターンもあるんですね。
川内:そうなんですよ。先日も「先週かけたので、請求書を出してください」とご連絡をいただいて、新しい上映方法だなとありがたく感じています。空いたときだけでなく、お客さんからリクエストされることもあるそうです。シアタードーナツは20席と小さいので、たまに貸切して友達どうしで観たいとリクエストがあったとき、「この映画どうですか?」と勧めてくださっているみたいです。元町映画館みたいに席数が多いミニシアターだと難しいですが、小規模だったらこんなやり方もあるんだなと、発見がありました。
―――主演の白鳥さんは当館にも来ていただき、その後も一緒に舞台挨拶に参加しておられましたが、何か感想を話されていましたか?
川内:白鳥さんが舞台挨拶をやりたいかどうかはわからないけれど、各地で誰かと出会ったり、お酒を飲んだりするのは楽しいみたいで結構来てくれました。白鳥さんとは富山のほとり座にも行ったなと今、思い出しました。オシャレな、いい映画館でしたね。どうしても日程が合わず、行きたかったけど行けなかったのが兵庫の豊岡劇場と広島の横川シネマです。上映は、今年の3月までずっと続いていたんです。自主配給なので細々した作業を全て自分たちでやらなければならないのは大変でしたが、動員数1万人を目標にしていたので、それまではと思ってがんばっていたんです。その目標を達成することができたので、もう悔いはないですね。
■韓国での上映と国内での思い出深い上映〜人気本屋が応援団
―――それは、おめでとうございます!国内だけでなく、韓国でも上映されたそうですね。
川内:2023年10月に上映したいと韓国からオファーをいただいていたけれど、わたしのスケジュールが詰まっていたので2024年の春なら行けますとお返事したところ、そのタイミングに合わせたいとおっしゃっていただき、この4月に上映していただきました。いい季節だったので、家族も一緒に韓国に行こう!と同行してもらい、観光も楽しめました。その上映時に韓国のバリアフリー映画祭の方が観に来られていたので、その場で上映オファーをいただき、この11月に再び韓国で上映される予定です。
―――上映後のQ&Aはどんな質問が出たのですか?
川内:1時間ぐらいたっぷりトークセッションを行い、その模様はYoutubeにもアップされています。日本では割と大きなテーマの質問が多いのですが、韓国では「あのシーンのここはどういう意図で入れたのですか?」というような結構具体的な質問を美術館の人が準備されていて、前日に質問リストをいただきました。当日は通訳の方が入り、それに答えるという形でしたね。美術館の教育プログラムに関わる人たち向け講演の依頼もあったので、初日は一般の方向け、2日目は美術館の方向けと2日間コースでした。
日本でも熊本市現代美術館 アートロフトで、東京藝術大学長の日比野克彦さんが行っているDiversity on the Arts Project (通称:DOOR)の一貫として、熊本市役所の方に作品を観てもらい、みんなでトークセッションを行いました。熊本のアーケードの中にあるDenkikanでも上映していただいたときは大苦戦しましたが、この美術館での上映会は大盛況で、上映も成功したんです。美術館の力と、日比野克彦さんが座長になってトークセッションを行ったことで、日比野さんファンの方がたくさん来てくださったんですよ。
―――劇場は他の作品も抱えているので、作品ごとにきめ細かな宣伝をするのは難しいのが現状ではあります。
川内:一方で、同じ九州でも福岡のKBCシネマは公開前日に、地元で有名な総合書店、ブックスキューブリックでトークイベントをやったんです。それなりに大きい本屋で80人ぐらい参加してくださり、店主の大井さんも「明日、映画館に行ったら、川内さんにまた会えますよ!」と映画の宣伝をすごくしてくださったおかげで、みなさん舞台挨拶に来てくださいました。その後も、連日結構お客さんが見に来てくださいました。
―――地元の人気本屋さんが強い応援団になったんですね。
川内:映画館と本屋のコラボレーションがうまくいったのが福岡だったと思います。わたしたちも努力はしましたが、うまくいく都市もあれば、苦戦する都市もありました。他にも、京都の出町座では、上映後に場所を移し、NPO法人京都カラスマ大学にて「小さく作って大きく届ける!〜映画『目の見えない白鳥さん、アートを見にいく』舞台裏」と題して、映画の一場面、一場面にどんな工夫が凝らされているのかを解説したのですが、個人的にも楽しかったです。音の組み合わせ方など、映画の作りがわかるようなワークショップを行ったり、一般の人がなるほどと思えるような映画塾みたいな感じですね。詳しいことは三好くんが説明してくれるので、わたしはただしゃべっているだけですが(笑)
■「ロッコク・キッチン」プロジェクトの出発点
―――いいコンビですね。この共同監督のコンビで再び挑んでいるのが「ロッコク・キッチン・プロジェクト」です。関西人に馴染みのない「ロッコク」(国道6号線)について説明していただけますか?
川内:国道6号線は仙台から東京・日本橋まで続く400キロもある長い国道で、ひとつの特徴は、福島第一原発の真横を通っていること。わたしが現地へ通い始めたころは、まだ大熊町や双葉町で全町避難が続いており、帰還困難区域だったので横に入る道の前にはバリケードが張られていて、一切曲がれず、南北に通り抜けることしかできない道路でした。
それが2019年ぐらいからバリケードがなくなって大熊町に入っていけるようになり、わたしも「ここで曲がれるじゃないか」と思いました。2020年ごろには双葉町に入れるようになり、住民はまだ戻れないけれど東京オリンピックに合わせ、駅前が整備されて、ずっと不通になっていた常磐線が開通し、そこまで行けるようになったんです。もう一度国道6号線沿いに人が住み始めると思ったときに、その人たちの暮らしはどのようになるのかと考えたのです。
その頃、浪江町の女性ふたりと知り合い、そのうちのお一人が浪江出身の方で、もう一人が東京の方でした。浪江出身の方が震災後に東京に避難したとき、避難先で知り合って仲良くなったそうです。浪江の方が地元に戻るタイミングで、東京の方も浪江に住んでみたいと一緒に引っ越してこられたそうです。周りはまだ何もない中で、彼女たちをはじめ、そこで住む人たちに話を聞く取材はできないかと思ったのがこのプロジェクトの出発点です。
―――一度離れざるを得なかった街に戻って住む、もしくは新たにその土地で住むなど、さまざまなきっかけが見られますね。
川内:そうこうしているうちに、どんどんと双葉町や大熊町が変わっていったので、今、この瞬間しか見ることができないものがたくさんあると感じていました。特に双葉町は元々は7000人ぐらい住んでいたのが、今はまだ100人ぐらいしかいないんです。元町映画館が2回満席になったら超えてしまうぐらいしか住んでいないと考えると実感できますよね。驚くことに、今は両町の出身ではない人がたくさん移住してきているんです。元々の住人が帰還するよりもはるかに多い移住者がいるわけです。
―――具体的にどんな層が移住しているのですか?
川内:大熊町は震災前の人口が1万1500人で、24年2月段階で1120人でした。そのうちの700人は東京電力の廃炉作業に関わる人たちなので、その人数を除くと400人しかいません。大熊町の復興住宅が集まっている地域は、もともと田んぼしかなかった地域です。なぜそこに建てたのかといえば、原発事故があった日の風向き通りに帰還困難地域(浪江町と双葉町、大熊町の多く)が広がっており、大熊町に関しては南側の線量が低いエリア(大川原地区)に新しい町を作り、住民を帰還させるというプロジェクトで、全体を除染するのは不可能なので、一部だけ除染し、そこに帰還させるわけです。町民の方からすれば、昔住んでいた家に戻れるわけではなく、戻った方はいらっしゃるけれど数的には少ない。つまり移住してきた人も、戻って来られた町民の方も、全然違う暮らしが今始まっており、わたしたちはそれを取材しているのです。
―――戻った町民の方は、複雑な感情を抱かれているでしょうね。
川内:福島県全体で、まだ3万人ぐらいの方が県外に避難されていると言われています。戻りたくても戻れない方も多く、むしろ戻れた方はまだ少ないと思います。
■食にまつわるエッセイを募集することからスタート
―――具体的にどのように取材を進めているのですか?
川内:いま、国道6号線沿いの市町村に住んでいる人たちに呼びかけてエッセイを書いてもらいました。それをまとめたのが現在発売中のエッセイ本「ロッコク・キッチン」です。
―――どんな感じで呼びかけたのですか?
川内:チラシを配ったりお店などに貼ってもらったりしました。大熊町の復興拠点である大川原地区は新しい住宅が集中しているので、三好くんと一緒にエリアを分けて、一軒ずつポスティングしていきました。結構泥臭く、呼びかけ活動を行いましたよ。
―――エッセイはどんなテーマで募ったのですか?
川内:特にこんな風にとは言わず、食にまつわるものでも何でもという呼びかけにしたので、いろいろなタイプの、その人らしさが表れているエッセイが集まりました。応募してもらう時点で、取材を受けたい/受けたくないをチェックできるようにし、受けてもいいと書いてくれた人にはわたしが積極的に訪ねていくという活動を行いました。中には、エッセイ集には登場しないけれど、たまたま出会いのあったおばあさんや、飲食店を経営されている方などその場その場で、取材を広げていきました。
―――その取材は映像インタビューという形ですか?
川内:映像で撮っていますが、映像化だけでなく書籍化も進行中です。先ほどのおばあさんはすごく大きな家にひとりで住んでおられ、避難生活の間に電気コンロひとつで作る料理に慣れてしまったそうで、味噌汁的な具沢山汁物を作り、3日間ぐらい食べているとおっしゃっていました。そのように、食生活の中にいろいろな人生経験が現れるのではないかと思ったんです。
■福島の国道6号線沿いに移住した人たちの今
―――確かに、料理は日々の営みの一部なので習慣が現れますよね。
川内:地元出身の20代の女性たちの場合、小学校時代に被災しているので、この町から出ていた期間の方がひょっとしたら長いぐらいなんです。でも帰りたいという想いで、自分の家ではなく復興住宅で一人暮らしをしている人もいます。他にも移住者のふたりは、近所の人たちと仲良く一緒にご飯を食べることも多いそうですし、インド出身の女性はチャイの話をしてくれたり、それぞれの生活がお話を聞きながら浮かび上がってきます。
さらに大川原地区には学び舎 ゆめの森という認定こども園と義務教育学校などが一体になった町立の学校があるのですが、チャイムもない、すごく自由な学校なんです。その学校の昼食風景を撮らせてもらったり、話を聞いたりもしました。お子さんが他の学校には通えなかったけれど、ゆめの森なら通えると、関東や関西から移住されるご家族もいらっしゃいます。お子さんが不登校で行ける学校を探す中でこの学校をみつけ、夫婦二人とも仕事をリモートにして、移住されたご家族にもお話を聞きました。「子どもが毎日ワクワクしながら学校に行っているので、本当に移住してよかったです」とおっしゃっていました。
―――復興地域とは別の文脈で、新しい教育に取り組んでいる場所など、別の方面から取り上げられることが少ないのが現状ではないですか?
川内:そうかもしれないですね。そういう希望がある場所でもある一方、廃炉が順調に進むのか、そして除染で出た除去土壌の最終処分場が2045年までに他県にできるかどうかわからないという大きな不安も抱えています。そういう不安や折り合いをつけながら、希望を持ち、それぞれの思いで暮らしているというのが現状だと思うんです。どうしても震災の辛かった記憶がクローズアップされるし、それを後世に伝えていくのも大きな仕事ですが、みんながそれだけをやっていたら、今、ここに住んでいる人たちは逆に取り残されてしまう部分があると思う。今、新しく住民になった人たちは、もう少し違う想いを抱き、希望を持って生きているわけで、どちらも現実としてある中で、今ある現実をできるだけフラットな形で伝えていきたい。 なかには「被災者と呼ばれることに、うんざりしています」「突然テレビカメラを向けられるような生活はもう嫌だ」とおっしゃる人もいます。
■映像の力を借りてでも伝えたいことは?
―――確かにメディアだけでなく、他地域に住むわたしたちも、イメージだけではなく、そこで生きている人たちの生の言葉に触れる機会を持つべきだなと痛感しました。『目の見えない白鳥さん〜』に続き、映像と書籍の二つの切り口でひとつのテーマを取り上げるのは、大変であってもその意義が大きいと?
川内:もちろん、私は物書きとして言葉を尽くして文章で伝えたいと思います。それでも、やはり映像の力は大きく、また文章とは異なるものだと実感しています。とにかく、わたしが通いながら思うのは、日本全国の人がこの場所が今どうなっているのかを知るべきだと思うのです。そのためには本だけでは足りないので、映像があった方がいい。文章というメディアに対してこだわりすぎるのではなく、写真の力も借りたいし、映像の力も借りたいという気持ちです。
―――三好さんのカメラの被写体との距離感がいいですよね。相手を煽らないというか、見守っているというか。
川内:そうですね、そっと横から撮っている感じで。今回は難しいチャレンジがたくさんありました。まずは食をテーマにしているので、お料理しているところを撮るのはどうすればいいのかを試行錯誤しました。バッチリ撮りたいけれど、カメラが入り込むと作っている人が緊張してしまうかもしれないので、結果的にはiPhone15で多くの料理場面を撮影しています。天井にクリップでiPhone15を固定させ、2時間ぐらい定点観察のように撮影し続けると、みんないつもの自然な感じで料理してくれました。チャイや中華丼の俯瞰した映像は全部iPhone15で撮影しました。他にも固定カメラやハンディーカメラを使ってやってみると、うまく作用することがわかったので、これでやれると自信が持てました。
―――現在、川内さんのお手元には在庫がないという500部限定のエッセイ本ですが、本当に細部までこだわりが詰まっていますね。三好さんと写真の一ノ瀬ちひろさんによる撮影現場エッセイも別冊で付いています。
川内:応募してくれたエッセイを1冊にまとめることは最初から決めていたのですが、生々しい感じではなく、でも安っぽくもなく、物としてかわいい感じにしたくて、色々と模索した結果、こんな形になりました。巻末にはわたしが書いた取材中の滞在記を収録しています。この冊子はわたしの趣向ですごくぜいたくな仕様にしてしまったので、全部売り切ってもプラマイゼロぐらい。もう少し、一般的な紙で印刷していたら増刷できたのですが、一之瀬ちひろさんの写真をきれいに見せたかったんです。
―――本当に素敵な本なので、大事にしたいと思います。今日はいち早く、映画のことを伺えてよかったです。「ロッコク・キッチン」の映画も書籍も、楽しみにしております!
(2024年6月21日収録)
<川内有緒さんプロフィール>
ノンフィクション作家。1972年東京都生まれ。
映画監督を目指して日本大学芸術学部へ進学したものの、あっさりとその道を断念。中南米のカルチャーに魅せられ、米国ジョージタウン大学の中南米地域研究学で修士号を取得。米国企業、日本のシンクタンク、仏のユネスコ本部などに勤務し、国際協力分野で12年間働く。2010年以降は東京を拠点に評伝、旅行記、エッセイなどの執筆を行う。
『バウルを探して 地球の片隅に伝わる秘密の歌』(幻冬舎)で、新田次郎文学賞、『空をゆく巨人』(集英社)で開高健ノンフィクション賞を受賞。『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』(集英社インターナショナル)でYahoo!ニュース|本屋大賞 ノンフィクション本大賞を受賞。
著書に『パリでメシを食う。』『パリの国連で夢を食う。』(以上幻冬舎文庫)、『晴れたら空に骨まいて』(講談社文庫)、『バウルを探して〈完全版〉』(三輪舎)など。最新刊は『自由の丘に、小屋をつくる』(新潮社)。全盲の美術鑑賞者、白鳥建二さんを追ったドキュメンタリー映画『目の見えない白鳥さん、アートを見にいく』共同監督。
現在は子育てをしながら、執筆や旅を続け、小さなギャラリー「山小屋」(東京)を家族で運営する。趣味は美術鑑賞とD.I.Y。高尾山にも登ったことがないわりに「生まれ変わったら冒険家になりたい」が口癖。
https://note.com/ariokawauchi/
Text 江口由美