本部朝基のハワイ訪問(2)
前回の記事で、本部朝基をハワイに招聘したのは、屋部憲通に師事した安座間太郎(沖:樽)たちだったのではないかと述べた。
その後、ドイツの空手研究者・ヤニック・シュルツェ先生より、安座間太郎は別名・Eiseiとも呼ばれていたとのご教示をいただいた。
調べてみると、本部朝基の弟子の東恩納亀助『楽園の布哇』(楽園の布哇社、昭和10)に以下の一文があった。
前回、ハワイ空手博物館のチャールズ・グディン氏から提供された「ハワイ唐手青年会」の写真を紹介したが、この書によると、正しくはホノルル唐手青年会、上原清信は上原正慎、安座間太郎は安座間栄正だったようである。
戦前の沖縄の男性には下の名前に童名と成人名の2つがあって、親族や友人からは成人後も童名で呼ばれるのが一般的だったので、太郎(樽)は童名、栄正は成人名なのであろう。
『楽園の布哇』によると、昭和8年(1933)9月12日にホノルル唐手青年会を結成し、会員は60名だったというからかなり大きな組織である(71頁)。上の安座間、宮城、上原の3氏はおそらくその中でも中心的な役割を果たした人物たちだったと思われる。
宗家(本部朝正)は宮城繁から本部朝基宛に送られた手紙を保管している。内容は本部朝基の入国が認められず残念であったこと、翌年来布した陸奥瑞穂、東恩納亀助から「唐手術のあらまし」を教わることができたこと、近々中城出身の安座間君が帰国するので、お金を預けたので受け取ってほしい、といったことが書かれている。
日付は3月23日とだけ書かれているが、陸奥・東恩納両氏の来布後なので、昭和9年(1934)3月23日と思われる。
お金を安座間氏に預けたとあるのは、安座間氏がホノルル唐手青年会を代表して東京で本部朝基から唐手を教わり、ハワイに戻ってその技を青年会の会員に伝達する、そのための謝礼だったのかもしれない。
「沖縄系移民渡航記録データーベース」によると、安座間栄正は明治37年(1904)生まれで中頭郡中城村字島袋出身とある。すると、上原清吉と同年生まれだったことになる。ちなみに字島袋は、以前紹介した「島袋パッサイ」が伝承されていた地域であり、武術が盛んなところだったのかしれない。
なお、宮城氏の手紙には「金城御老人」も元気に過ごしておりますということも書かれており、どうやら本部朝基とこの老人は知己の関係にあったようである。
金城御老人について、沖縄県空手振興課の調査の際に来阪された西村秀三氏より、金城亀(のち里太郎に改名)もしくは金城珍善の可能性があるとご教示いただいた。
金城亀(1869—1933)は南風原間切津嘉山村の出身で、唐手を松村宗棍に師事し、郷里津嘉山では「武士小」と呼ばれていた。一期先輩の漢那憲和(海軍少将、のち衆議院議員)等が起こした「一中ストライキ事件」に参加したため退学処分となり、測量技師をつとめた後、明治32年(1899)12月、第1回ハワイ移民団に参加して横浜港よりハワイへ渡った。
本部朝基より1歳年上で、同じ松村門下であれば青年時代より顔見知りだった可能性が高い。ただ『南風原町史』によると、宮城氏の手紙の時点ではすでに亡くなっていることになる。西村氏によると、数え年と満年齢による計算ミスかもしれないので、昭和9年時点ではまだ存命だった可能性もあるとのことであった。
ちなみに、本部朝基の妻・ナビは盛島殿内の出身だったが、その兄弟姉妹に津嘉山の金城家の人がいて、大阪府豊中市に戦後住んでいた金城仁助氏は「津嘉山の嫡子」と呼ばれていた。
以前筆者はこの金城家について、ナビの姉妹の嫁ぎ先だったと考えていたが、最近金城家の方と連絡を取ることができ調べた結果、どうやら盛島家の庶子の家系で、盛島家の血筋だということがわかった。
すると、津嘉山出身の金城亀は本部朝基の縁戚だった可能性もある。
ほかにも、やはりナビの姉妹の子と思われる大城芳子(旧姓多和田)がハワイに住んでいて、前回の大阪万博(1970)のとき来阪したことがあった。
金城珍善(1873年生)は第1回移民団のメンバーで、出身は那覇で東恩納寛量の弟子だったという説もあるそうだが、筆者は詳しく調べたのでわからない。
かりに金城御老人は彼らではなく、彼らが本部朝基の知人ではなかったとしても、第1回移民団のメンバーに唐手を修業した者が含まれていたという事実は空手の初期の海外伝播を考える上で興味深い。
参考サイト:
二人のKinjo 〜ハワイの沖縄空手の底流〜|Studies