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嘉納治五郎と本部朝基
『沖縄小林流空手道協会誌 -合理合法 共存共栄-』(2014年)に、小林流の石川清徳の座談会記事(1999)が収録されているが、その中に以下の一節がある。
石川館長 (中略)加納治五郎先生が来沖した時、船越先生の空手は東京でも見ているが、本部先生と城間先生二人で加納先生が折角沖縄にいらっしゃっているので歓迎の意味で、沖縄の空手をお見せしなければ、ということになった。そこで商業高校の4年生の島袋太郎を学校の許可を得て、呼び出し、チントウを演武させた(注1)。
石川先生によると、嘉納師範が来沖した際、本部朝基と城間真繁が案内役を務め、さらに島袋太郎を呼び、チントウを演武させた。また、そのとき嘉納師範は、本部朝基に「窮地に追い込まれていってどうしようもない時、どのようにして難を逃れるか」と質問したところ、本部朝基は「ワッターガ、イラランアナンカイイレーカンドゥスル(入られない穴に入る)」と答えたら、嘉納師範はひどく感心した(注2)。
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これは、本部朝基が重視していた「入身」を述べたものだと思うが、嘉納師範は唐手の理は柔道の理と相通じるものがある、と思ったのであろう。このとき「攻防自在」の言葉が誕生したという。
その時に「攻防自在」という言葉が空手の重要な技の表現として生まれたのです。沖縄の空手を評価して加納先生が使った言葉です。「フシジシン、シミーシン、ドゥジシンカイドゥアンドゥ(防ぐのも、攻めるのも自分自身の武才による)」という意味です(注3)。
さて、これらの逸話は本当であろうか。横本伊勢吉「琉球九州随伴記」(1927)に以下の文章がある。
午後、市公会堂に於て女子師範・高等女学校其他女子中等学校生徒の為に、女子の心得につき、又精力善用、自他共栄について講演された。講演後土地の棒術家の実演や、本部(モトブ)氏が拳骨にて、厚さ八分もあろうと思われる板一枚を破ったり、又、掌(小指側の筋肉)でその二枚重なったのを容易に割ったりされる実演を見た。本部氏は、多年この唐手を実地に応用することを研究して、実地に試みることについては、沖縄第一と称せられてゐる人である。師範は親しく本部氏の拳、掌を手で触ってみられて、その練習については大いに賞讃せられた。なほその他、大城氏の立板を拳でぬく術の実演もみせて貰った(注4)。
嘉納師範は、昭和2年(1927)1月3日から7日にかけての4日間(4泊5日)、沖縄を訪問した。そのとき、永岡秀一(8段)と、横本伊勢吉(5段)が同行したが、上記はその滞在中の1月7日午後の出来事である。
このとき、本部朝基は板割りの実演を行った。厚さ8分(約2.4cm)の板を拳骨で破った。さらにそれを2枚重ねたのを、掌(小指側の筋肉)で破った。これは、手のひらを開いた状態で小指側を使った、すなわち、手刀で破ったの意味であろう。
唐手の実地の応用とは、型の応用、すなわち組手を指すと思われる。本部朝基は組手では「沖縄第一」と称せられていると紹介された。
大城氏とは大城朝恕のことであろう。棒術の実演も彼が行ったと思われる。大城先生は当時、山根流棒術の第一人者であった。城間真繁の名前が出てこないが、石川先生が大城先生と城間先生を勘違いしたのか、それとも城間先生も出演したが、横本の文章では省かれたのかわからない。島袋先生のチントウの演武も記載がないが、別の機会に行われたのであろうか。
いずれにしろ、本部朝基が嘉納師範の前で唐手の実演を行い、その際、石川先生が語ったような質疑応答があったと思われる。また嘉納師範は本部朝基の練習を賞賛したということなので、大筋では話は合っていると思われる。
注1 『沖縄小林流空手道協会誌 -合理合法 共存共栄-』沖縄小林流空手道協会、2014年、116頁。
注2 同上、116頁。
注3 同上、116頁。
注4 『作興』1927年3月号、講道館文化会、34、35頁。原文は旧字旧仮名遣い。
本部朝基は、昭和2年(1927)1月7日、来沖した嘉納治五郎の前で唐手を演武した。しかし、実は他の日にも2人は会っている。中田瑞彦『本部朝基先生・語録』(1978)に、以下の文章がある。
31. 自分が国にいた頃、講道館の嘉納治五郎さんが沖縄に来られ、自分の話を聞きたいといって、知人を通じて、ある料理屋に招かれた。嘉納さんはいろいろ雑談されたが、唐手については、“突いて外れたときはどうしますか”と聞いたのでそのときは、その手の肘ですぐ追い打ちをかける、と仕方話で答えたら、黙ってうなずき、それ以上、なにも唐手のことは尋ねられなかった。
註)達人と達人の間の、味のある話である。
7日午後の唐手演武のあとすぐ、嘉納師範は午後4時には船で那覇から鹿児島へ向けて出発している。それゆえ、上記の会合は1月6日以前に行われたと思われる。
さて、ここで一つ疑問が浮かぶ。なぜ本部朝基は嘉納師範の前で演武することになったのであろうか。教育関係者が来沖した場合、ふつうならば唐手の心得のある学校教員、もしくは嘱託として師範学校で唐手を教えているような人物が選ばれるはずである。実際、城間真繁も大城朝恕も学校教員であった。
以下は、本部朝基の弟子の丸川謙二先生より伺った話である。
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沖縄に来て、嘉納師範は唐手を一通り見学した。しかし、それは期待したものとは違っていた。お付きの世話役に、「唐手というのは型しか稽古しないのかね?」と感想を漏らした。嘉納師範が見た演武は型が中心だったらしい。
それを聞いた世話役が、「嘉納師範は組手のほうに関心があるのだ」と察した。そこで、「沖縄には組手に優れた武士がおりますが、あいにく彼はいま那覇を離れております。すぐ呼び寄せますので、しばらくお待ち下さい」と伝えた。それで急遽本部朝基が呼ばれたという。
つまり、本部朝基の演武は本来予定にはなかった。演武が嘉納師範の出発直前にセッティングされたのも、急遽決まったのでその時間しか空いていなかったからかもしれない。
嘉納師範は、形稽古中心の柔術から乱取り稽古中心の柔道を興した人物である。せっかく沖縄まで来たのだから、組手の話を聞いたり実際に技を見せてもらいたいと思ったに違いない。
本部朝基を呼び寄せた人物は不明であるが、当時の世話役の一人に太田朝敷がいた。彼は東京へ留学した際、学習院で嘉納師範に学んでおり、かつ本部朝基とは幼馴染であった。若い頃は、無理やり本部朝基に掛け試しをやらせようとしたこともある。それゆえ、彼が本部朝基を呼び寄せた「知人」だったのかもしれない。また、沖縄唐手研究倶楽部に資金を提供した大城兼義も世話役の一人であった。
さて、本部朝基が実際に嘉納師範の前で組手を披露できたかどうかは、横本伊勢吉の「琉球九州随伴記」(1927)からは不明である。あるいは、約束組手くらいは披露したかもしれない。いずれにしろ、横本の文章を読む限りでは、嘉納師範も演武に満足したようであるから、演武は成功だったのであろう。
これまで、嘉納治五郎と本部朝基の関わりについて、横本伊勢吉「琉球九州随伴記」(1927)、中田瑞彦「本部朝基先生・語録」(1978)、「石川精徳先生 空手談義」(1999)といった文献を紹介してきた。嘉納師範の沖縄訪問は、空手史のみならず柔道史の観点からも重要なテーマであるが、それについて述べた文献は少ない。
さて、上記に加えて、ドイツの空手研究家のアンドレアス・クヴァスト先生が松林流の長嶺将真(1907 - 1997)の「遺稿」の記述を紹介している。この遺稿は、生前長嶺先生が手書きで書き記したノートブックを、子息の高兆(たかよし)先生の許可を得てコピーしたものである。下記がその記述である。
大正拾四年頃、柔道の加納治五郎先生に沖縄の空手、古武術を紹介したことがある。その時に演武を行った方々は首里手では、
本部朝基、城間真繁
知花朝信、島袋太郎
大城朝恕(注1)
大正14年(1925)は、嘉納師範の来沖した昭和2年(1927)とは異なっているが、演武者の氏名は石川先生や横本氏の証言と一致している。ただ知花先生の名前はなかった。小林流の石川先生が師匠の名前を省くというのは不自然なので、この点についてはさらなる調査が必要かもしれない。
前回の記事で述べたように、本部朝基は、嘉納師範の世話役を通じて呼び出され急遽演武することが決まった。それゆえ、城間先生(1891–1957)や大城先生(1887ー1935)は本部朝基が声を掛け、さらに城間先生と相談して島袋先生(1906ー1980)を呼び寄せたのかもしれない。島袋先生は城間先生に中学生のときに師事していた。
ところで、島袋先生が商業学校4年生のときに演武したというのは年齢が合わないのではないかとの指摘があったので調べてみた。
長嶺先生の『史実と伝統を守る 沖縄の空手道』(1975)に以下の記述がある。
私は本格的に空手を修行したいと思い、大正14年、19才の時に、私より1年上級生であった島袋太郎兄の門を叩いたのである。首里市鳥堀町にあった島袋宅へ往復2里、毎日徒歩で通う日課が始まった(注2)。
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大正14年(1925)には長嶺先生は満で18歳なので、19歳というのは数え年である。そして、その時島袋先生は那覇市立(旧制)商業学校の1年上級であった。長嶺先生は昭和3年(1928)3月に商業学校を卒業しているので(注3)、島袋先生が卒業したのは昭和2年(1927)3月になる。
当時の那覇商業学校は5年制であったので、嘉納師範の演武のときは、島袋先生は商業学校5年生、満でおおよそ20歳、数え年22歳になる。それゆえ、石川先生の証言は学年は1年違っていたがまだ在学中であったので、証言は事実だと思われる。
注1 長嶺将真「遺稿」40頁。句読点は筆者が追加。
注2 長嶺将真『史実と伝統を守る 沖縄の空手道』新人物往来社、1975年、55頁。
注3 同上、372頁。
出典:
「嘉納治五郎と本部朝基 1~3」(アメブロ、2021年7月17日、19日、23日)