ナイハンチの横受け
以前、「ナイハンチの変遷」という記事で、本部朝基のナイハンチ立ちは「糸洲のナイハンチ」以前の、松村宗棍の時代の立ち方であると述べた。
立ち方以外にも、本部のナイハンチには糸洲のナイハンチと異なる点がいくつかある。その一つに横受けの際の手のひらの向きがある。
糸洲のナイハンチでは、横受けをする際、前腕を外旋させて、手のひらを正面もしくは外側に向けるが、本部朝基では手の甲が外側に向いているのである。いわゆる内受けの格好である(全空連では外受けと呼んでいるようなので、以下では外受けと表記する)。
ところで、この箇所は、以前紹介した泊のナイハンチ(伊波興達系統)でも、同様に外受けである。
また、これも以前紹介した非糸洲系統の古流首里手の流れを汲む「武村のナイハンチ」でも外受けである。
武村のナイハンチは廃藩置県後に山原地方に移住した武士武村が岸本祖孝に伝えたナイハンチである。
このように見ていくと、非糸洲系統の首里手や泊手のナイハンチは本部のナイハンチ同様、外受けをしている。
最後に本部朝基の親友だった屋部憲通の流れを汲む遠山寛賢のナイハンチの写真を以下に紹介する。遠山先生は沖縄県師範学校で屋部先生の助手を務めた。
写真はやや不鮮明であるが、解説文には「左拳にて中段外受けをする」とある。どうやら遠山のナイハンチ(屋部のナイハンチ)も、本部のナイハンチと同じく外受けのようである。
ちなみに、本部朝基は『私の唐手術』(昭和7年)でこの箇所について、「この時、よく腕を捻ぢる様に教える人あるも、誤れるも甚だし、何となれば手のひらを以て受る法無し、注意すべし」と、注意を促している(注)。
これは筆者の推測だが、この箇所もナイハンチ立ち同様、糸洲先生によって腕を捻るように改変されたのではないであろうか。そうだとすると、非糸洲系統の首里手、泊手、松村先生に師事した本部や屋部のナイハンチが外受けになっている理由が説明できるのである。
注:この箇所は原文では「手の甲を以て受る法無し」と誤植になっている。
出典:
「ナイハンチの横受け」(アメブロ、2016年11月28日)。
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