琉球国王の武術指南役
空手史を調べていると、ときどき誰某は「国王武術指南役」だったとか、「王家武術指南役」だったといった口碑を目にすることがある。
例えば、松村宗棍は17代尚灝、18代尚育、19代尚泰の武術指南役を務めたと、様々な空手書に記されている。また、棒術で名高い添石殿内も国王武術指南役を代々務めたと書いている記事もある。
本部御殿にも、八世・本部按司朝章(唐名・尚景保)がやはり尚灝、尚育、尚泰三代の武術指南役を務めたという口碑が伝わっている。朝章は武術にすぐれ、体格も立派だったそうで、国王代理として適任ということで、フランスのゲラン提督との間で琉仏修好条約を締結する際には、総理官(総理大臣)に任命されている。
ところで、国王武術指南役という役職は、琉球王府の職制には存在しない。それゆえ、こうした口碑は作り話ではないかと疑う人たちがいる。果たして事実はどうだったのであろうか。
以前、「ヤカー」という記事を書いた。ヤカーとは、守役(もりやく、方言でウムリヤク)のことで、御殿殿内といった上級士族の子弟の養育係や教育係のような役職である。ヤカーの中には武術を教える人もおり、糸洲先生も本部御殿のヤカーであった。
また、松村先生は国王の御側役、御側守役だったと伝えられているので、おそらく国王や世子(王太子)のヤカーとして武術を教授したのであろう。
御側役や御側守役というのも実は通称であり、正式には近習(きんじゅ、ウチンジュー)のことである。
首里城には近習詰所と呼ばれる建物があり、ここには国王の身の廻りのお世話をする、近習方(きんじゅほう、ウチンジューホー)という部署が置かれた。近習方の役人構成は以下の通りであった。
・近習頭1名
・近習相附役6名
・筆者11名
・御側仕10名
・御庖丁1名
・庖丁小盤2名
これらのうち、御側仕(おそばし、ウスバシ)と呼ばれる近習の下級職があるのだが、松村先生が務めたという御側役とは、この御側仕のことだったのではないだろうか。御側仕は、国王の日常生活の世話をするだけでなく、各種学問や芸能の師匠(教師)を兼ねることもあり、国王の家庭教師のような役割をしていたからである。
例えば、琉球王国時代の著名な音楽家・野村安趙は、御側仕になると同時に国王の音楽の師匠(歌師匠)も務めたという(『沖縄大百科事典(下)』179頁)。
また、中城御殿(世子の宮殿)にも、以下のような役職が存在した。
・守役(ウムリヤク)1名
・守役相附(ウムリヤクイェーチチ)1名
・近習役(ウチンジューヤク)3名
・近習役筆者3名
・側仕(ウスバシ)3名
ここにも近習役が存在する。例えば、蔡温が尚敬王から「国師」とあがめられたのは、王が即位する前、蔡温が尚敬の近習役に就任し、家庭教師を務めたからであった。
また、中城御殿には、文字通り、守役の役職も存在する。それゆえ、松村先生はひょっとすると世子の守役を務め、世子が国王に即位すると、国王の御側仕に転任したのかもしれない。
琉球王国時代の著名な武術家の役職履歴を調べて、もし上記のようは役職に就任していることが分かれば、あるいはその人は「国王武術指南役」や「世子武術指南役」を務めていた可能性がある。
出典:
「国王武術指南役と近習」(アメブロ、2017年2月7日)。