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本部御殿手の対多人数稽古

学生の頃、吉川英治の『宮本武蔵』を読んだことがある。その中に有名な、京都一乗寺の下り松の付近で吉岡一門と対決するシーンがあった。もうおぼろげにしか覚えていないが、確か武蔵が斜面の林を駆け下りながら、奇襲を仕掛けて倒したように思う。

スポーツと実戦の違いは何だろうか。大きな違いの一つは実戦は敵が一人とは限らない点だと思う。天流の開祖のように、複数の敵に襲われて命を落とした武芸者もいた。

本部御殿手と現代空手との間にはいろいろ相違点があるけれども、その一つに「複数の敵を相手にした稽古」を本部御殿手は重視しているという点がある。この対複数の稽古は本部拳法にもある。実際、本部朝基は複数の敵に襲撃されたことがあった。

本部御殿手の稽古に、まわりから攻撃してくる相手を順番に斬っていくというものがある。おそらく市販のビデオなどでこの稽古をご覧になった方もおられると思う。もちろん、実際に複数の弟子を相手にした稽古ができるようになったのは戦後のことである。上原先生が本部朝勇に師事していたときは、本部御殿手の弟子は上原先生1人しかいなかったから、上原先生は1人でぐるっと回りながら刀で仮想の敵を斬る稽古をしていた。

この稽古法の起源は何だろうか。1人で仮想の敵をぐるぐる回りながら斬るというのは中国武術の影響なのだろうか、それとも日本武術の影響なのだろうか。あるとき薬丸自顕流の「打ちまわり」の稽古を見たときに、本部御殿手としていることが似ていることに気づいた。

以前、靖国神社の奉納演武で薬丸自顕流の方とご一緒したことがある。そのとき薬丸自顕流のご宗家や師範の方からいろいろお話をうかがって、本部御殿手と共通していると思う点がいくつかあった。たとえば、本部御殿手にはつま先立ちの歩法があるが、薬丸自顕流にもつま先立ちの歩法があるのだという。

琉球に示現流が伝わっていたのは、「阿嘉直識遺言書」からも明らかであるが、この遺言書の中に阿嘉親雲上直識あかぺーちんちょくしき(1721-1784)の曾祖父が遺した示現流の書への言及があるから、17世紀には琉球に示現流が伝来していたことは確かである。

薬丸自顕流が示現流から派生して成立したのはそれより後代であるが、打ちまわりの稽古は示現流の門人であった薬丸兼慶(1673-1758)が考案したそうだから、阿嘉直識が生きた18世紀に打ちまわりが琉球に伝えられていたとしてもおかしくない。

空手の型には、四方の敵を想定しているような動きがあるが、これは単なる「表演的な要素」ではなく、稽古に際しては複数の敵と戦うときの「口伝」を教えながら実戦を意識して教授されていたのではないであろうか。そうだとすれば、中国武術から影響もあったのかもしれない。







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