袖山豊作
宗家(本部朝正)は、戦前、父・本部朝基宛の手紙やはがきをいまでも大切に保管しているが、その中に「袖山生」と差出人名が書かれたはがきがある。
袖山生とは、袖山豊作のことである。「生」は「拝」と同様の謙称で、戦前はよく使われた。
袖山氏はもと小西康裕(神道自然流開祖)の弟子であったが、戦前東京大道館で本部朝基からも直接指導を受けていた。
さて、このはがきは楠木正成公をあしらった、いわゆる「楠公官製はがき」である。消印の下には、見えにくいが「貳錢」と印刷されていて、その下にアラビア数字で「2」とある。これはこのはがきの料金が2銭という意味である。
楠公官製はがきが1銭5厘から2銭に値上がりしたのは昭和12(1937)年であるから、このはがきは昭和12年以降に発売されたものであることがわかる。
また消印は「14.8.18」と和暦で刻印されているので、昭和14年8月18日に投函されたものである。宛先は「牛込区原町」にあった大道館道場である。牛込区は昔あった東京都の旧区で、昭和22年に近隣の区と合併して新宿区になった。
本部朝基は昭和11(1936)年夏、一時沖縄に帰郷して、同年10月に開催された有名な「空手大家の座談会」に出席した。その後、那覇牧志町に道場を開いたが、1年ほどで閉鎖して家族のいる大阪に戻った。そして、東京の門人たちの協力で昭和14(1934)年から牛込区に再び道場を開いて、大阪と東京を半年ごとに往復する生活を2年ほど続けたが、戦時下で以前ほど道場生が集まらなかったのか、昭和16(1941)年秋には道場を閉鎖して大阪に戻った。そして、昭和17(1942)年まで大阪に滞在して、一時鳥取で教えたりしたあと沖縄へ帰郷した。
なぜ、このことを記すかというと、長嶺将真が著書で本部朝基は昭和14年に沖縄に帰郷して以降、二度と本土には戻らなかったと間違って書いたので、それ以降その説が広まってしまったからである。
袖山氏のはがきは、本部朝基が昭和14年にはまだ本土に暮らしていたことを証明している。また、昭和15(1940)年に東京で「本部朝基後援会」が発足したと報じた新聞記事もある。
厄介なのが、長嶺先生の本が翻訳されて海外にもこの説が伝わったので、時々英文で「本部流はうその歴史をインターネットのホームページで紹介している」と抗議のメールが届くのである。
長嶺先生は戦争で戦前の資料をすべて失って、戦後は記憶を頼りに本部朝基を含む戦前の空手偉人伝を書かれた。その業績全体は立派なものだが、当然個々の記事には記憶違いに基づく記述も散見される。
どんな人間にも誤りはあるので、史実に基づいて情報は訂正されていかねばならない。
出典:
「袖山豊作」(アメブロ、2016年3月26日)。