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松村宗棍の指導法

以前、外国の空手研究者から松村宗棍は36の型を教えていたという説を聞いた。そして、それらを継承していると主張する日本人もいるらしい。筆者はその説の根拠を尋ねたが、その研究者もわからないとの返事であった。

以前述べたように、松村先生が実際に教えたと確認できる型は3つしかない。それはナイハンチ初段、五十四歩、クーサンクーである。

そもそも松村先生は、たくさんの型を稽古することに否定的であった。弟子の桑江良正くわえりょうせいへ宛てた手紙の中で、松村先生はそうした空手を「学士の武芸」と呼んで蔑んでいる。

学士の武芸は、頭に稽古の仕様相替り、成熟の心入り薄く、手数計り踊の様にて相成り、戦守の法罷り成らず、婦人同人にて候。

意訳:
学士の武芸とは、頭の中であの型をしてみよう、この型をしてみようと様々に思いついては試してみるが、深く一つを極めようという心掛けがないのでいずれも成熟することなく、ただ型の習得数ばかりが増えて、実戦での戦い方や守り方は身につかず、結局素人の女性と変わるところのないような人間の武芸を言うのである。

また、屋部憲通は、松村先生との稽古の様子を以下のように述べている。

本部朝基先生とご親交深く、ともに長年月ご研究せられたが、主眼を実戦に置かれた由である。
(中略) 先生の練習方法は、3、4回型を反芻すると松村先生―屋部先生の師範―を相手として、真剣の練習試合―何等の防具を用いず―せられたそうである(注)。

上記によると、松村先生はある型を3、4回稽古したあと、真剣の練習試合、つまり組手の稽古をしていたということである。この組手が普通の離れた間合いの、本部御殿手にあるような半自由組手だったのか、それとも本部拳法にあるような接近しての掛け手だったのかはわからない。筆者はおそらく両方だったのだろうと推測している。

いずれにしろ、松村先生の指導法は、一度にたくさんの型を教えるようなものではなかった。むしろ型の稽古は少数にしぼり、残りは組手稽古を重視していた。松村先生にとって、空手の稽古の目的はあくまで実戦で役立つ「戦守の法」を身につけることであった。型の習得数を自慢するような「衒学主義げんがくしゅぎ」ではなかった。

したがって、松村先生が36の型を教えていたという説は彼の思想を考慮すれば考えがたいし、またそれを立証する戦前の史料も存在しないのである。

さて、上記によると、屋部先生は成長してからは本部朝基と長い間組手の研究をした。組手は一人では稽古できないからパートナーが必要だが、屋部先生のパートナーは本部朝基だったわけである。この二人が組手を重視したのも、明らかに松村先生の影響と考えるべきであろう。

注 三木二三郎、高田瑞穂『拳法概説』1930年、183、184頁。

冒頭写真:松村宗棍が空手を指導していた識名園。出典:那覇市歴史博物館。

出典:
「松村宗棍の指導法」(アメブロ、2020年3月20日)。note移行に際して加筆。


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