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本部朝茂のピンアン

最近紹介している本部朝勇の次男、本部朝茂(1890-1945)の型にはピンアンもある。しかし、このピンアンも前回のナイハンチ同様ユニークなのである。まずこのピンアンには、初段や二段といった名称が付いていない。ただの「ピンアン」という名称なのである。

とはいえ、ピンアンシリーズと全く異なる型ではなく、実質的に今日のピンアン初段とほぼ同じである。「ほぼ」というのは、実はこのピンアンは、ピンアン初段よりも後半部分が複雑で、さらに長い動作が続くからである。以下に、その部分を動画で紹介する。

今日のピンアン初段では、この部分は斜め45度の方向にそれぞれ、下段払い、上受けと続くが、本部朝茂のピンアンではさらにそのあと、正拳突きが3連続する。また、正面に向き直って、正拳突き、横受け、前蹴り、連続突きと続くが、この部分は今日のピンアン初段にはない。立ち方は猫足立ちでなく、ナイハンチ立ちもしくは四股立ちに似た立ち方である。

朝茂先生は、このピンアンを糸洲安恒から直接教わったのであろうか。朝茂先生は明治23年(1890)生まれである。本部朝基が糸洲先生に習い始めたのが数え年12歳だったから、朝茂先生も同じ歳に糸洲先生に習い始めたとすると、数え年12歳は満10、11歳くらい、すなわち、明治33年(1900)か34年(1901)である。

その当時、朝勇家はまだ明治政府から旧按司家として有禄士族に認定され、金禄公債をもらっていた。沖縄県の有禄士族に対して、明治政府は反乱を恐れ、秩禄処分が実施されていなかった。そして明治43年(1910)の「沖縄県諸禄処分法」制定まで金禄公債の支給は続いた。

それゆえ、朝勇家は何不自由なく暮らし、糸洲先生を朝茂先生の家庭教師(ヤカー)として以前同様に招聘したかもしれない。同じ頃、糸洲先生は沖縄県の小学校や中学校で唐手の嘱託教師として、唐手を教え始めていた。そして、学校教育向けに、意気込んで初期ピンアンを創作した。そして、これを朝茂先生にも教えた。しかし、このピンアンは小中学生には複雑過ぎた。

一般にピンアン初段はピンアンシリーズのなかでも複雑な型で、それで船越義珍先生は、初段と二段を入れかえたくらいである。糸洲先生は反省して、この初期ピンアンの後半部分を簡素化して新たに「ピンアン初段」とし、そして本部朝基が教わったというチャンナンをやや複雑にしてこれを「ピンアン二段」としたのかもしれない。

その後、明治38年(1905)に沖縄県師範学校でも唐手を教えるようになり、さらに糸洲先生はピンアン三段、四段、五段を制定した。初期ピンアンから削った後半部分は、ややアレンジしてピンアン四段に組み入れたというう仮説である。

あるいは、この型はかつて本部朝勇が教わった「チャンナン初段」で、父が息子に教えたのであろうか。本部拳法にはピンアン二段に似た「白熊」という型が伝わっているが、こちらが「チャンナン二段」だったとしたら、一応辻褄が合う。

真相は不明だが、この本部朝茂のピンアンは、糸洲先生のピンアンの創作過程を解明する上で重要な型だと思われる。

出典:
「本部朝茂のピンアン」(アメブロ、2018年3月18日)。


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