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湖城徳昌、以正、以恭

明治政府は沖縄から清国へ逃亡した「脱清人」のリスト、「脱清人明細表」(1884年、明治17)を作成しているが、その中に湖城家の湖城徳昌と湖城以正の名前がある。

族籍 旧官職業 姓名 年齢
那覇久米村七十九番地士族 親雲上北京大通事 湖城徳昌 六十三年
那覇久米村七十九番地士族 親雲上旧役不明 湖城以正 三十五六年

「脱清人明細表」

上記の年齢は、1884年(明治17)時点での年齢である。幸地朝常(1843 - 1891)が41歳とあるので、数え年ではなく満年齢での記載であることがわかる。したがって、湖城徳昌(63歳)は1821年生、湖城以正(35、6歳)は1848、9年生と推定される。二人は、沖縄の住所が同じことから分かるように徳昌が父、以正がその長男である。

また、「明治17年12月調査在清人現員表」というリストがある。これは1884年(明治17)時点で、帰国せずに清国に滞在していた琉球人のリストである。そこにやはり湖城家の人々の名前がある。

渡清ノ年月 在留地 族籍 旧官職業 姓名 年齢
明治七年ヨリ在留 福州 那覇久米村七十九番地士族 親雲上北京大通事 湖城徳昌 六十三年
明治十二年ヨリ在留 天津 那覇久米村七十九番地士族 親雲上旧役不明 湖城以正 三十五年
明治十五年ヨリ在留 福州 久米村七十七番地士族 里ノ子無役 湖城以恭 二十五六年

「明治17年12月調査在清人現員表」

こちらの表では湖城以恭が追加されている。彼は徳昌の三男であった。こちらの表の湖城家の人物の生年と年齢をまとめると以下のとおりになる。

湖城徳昌 1821年生 63歳
湖城以正 1849年生 35歳
湖城以恭 1858、9年生 25、6歳

湖城以恭は「本部朝勇の中国旅行」の記事で紹介したように、朝勇と同時期に旅券(パスポート)を取得して一緒に中国旅行に出かけたと考えられる人物である。旅券に記載の生年は1858年(安政5)だったので、1858年生まれだったことがわかる。

さて、「湖城流の系譜」によると、湖城以正は湖城流の3代目で中国人のイワーに師事したとされる。生年は1832年とされていたが実際は1849年生まれであった。

また、その父は2代目・蔡昌偉とされていたが、実際は湖城徳昌であった。琉球士族は唐名と和名の2つをもっていたから、蔡昌偉は唐名、湖城徳昌は和名で矛盾しないと思われるかもしれないが、久米士族は唐名の下の名前だけがあり、和名の下の名前はなったので、下の名は両方とも共通であった。

したがって、和名が湖城徳昌なら唐名は蔡徳昌となる。それゆえ「昌偉」は別人か、同一人物なら名ではなく号のようなものだったのかもしれない。また、生年も1816年生まれとされていたが、実際は1821年生まれであった。

さて、ここで問題になるのは、イワーに師事したのは湖城以正だったかという点である。同じくイワーに師事したとされる松村宗棍は、(諸説はあるが)1809年頃の生まれとされる。湖城以正とは生年が40年も離れている。したがって、イワーに師事した「湖城小」は父の湖城徳昌のほうだった可能性も考えられる。もちろん、イワーの晩年に師事したのならば、湖城以正であってもおかしくはないが。

(明治17)時点で、徳昌は10年、以正は5年、以恭は2年、清国に滞在していた。琉球王国時代の旅役の滞在期間が半年から1年半であったことを考えると、彼等は亡命という形ではあるがずっと長く滞在していたことになる。もし彼らが脱清している間に中国武術も修業していたのなら、通常の旅役よりも長いあいだ修業することは可能だったであろう。

出典:
「湖城徳昌、以正、以恭」(アメブロ、2021年11月7日)。


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