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空手と墓守
空手の歴史を調べていると、ときどき御番という言葉に出くわすことがある。
たとえば、松村宗棍は廃藩置県後は識名園(王家別邸)の御番をしていたとか、喜友名親雲上は玉陵の御番をしていたとかいった具合である。
この御番は王家の別荘や陵墓を警備する守衛のような役職であった。名の知れた空手家の中には、その腕を買われて廃藩置県後もこうした役職に就くものがいた。
また御番とは別に、空手家が墓守をしていた、という記述を見かけることもある。たとえば、糸洲安恒は廃藩置県後に伊江御殿墓の墓守をしていたという。
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金城裕『唐手から空手へ』(日本武道館、2011年)に、松村先生が明治27(1894)年頃、米寿のお祝いのお礼を言いに、伊江御殿を訪ねたとき、伊江朝助男爵(1881-1957)と以下のようなやりとりがあったエピソードが紹介されている。
男爵 おお松村、うちの糸洲の「手」はどうだ、糸洲を凌ぐほどの者はいるまい。
松村 いいえ、糸洲の技はのろくて、実戦には間に合いますまい。
自分の家の使用人を酷評されて、伊江男爵はショックを受けたそうだが、このとき糸洲先生は伊江御殿の墓所と馬の管理を任されていた。
伊江御殿墓もそうだが、昔は御殿(王家分家)の墓は墓域が数千坪あり、墓泥棒から墓を守る墓守(御墓番)の家が付属していた。
たとえば、下の写真は浦添御殿の墓と、戦時中にその墓域を米軍が空中から撮影したものである。
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空中写真には、御墓のそばに墓守の屋敷が写っているのがわかる。
御墓の墓室は大体一部屋くらいの大きさがあって、そこに歴代の当主の厨子甕(骨壺)が収められているのだが、稀に当主が生前身につけていた金の簪などの貴金属が厨子甕に入っていることがある。
そうした貴金属を狙った墓泥棒がいたので、墓守が御墓を警備していたのである。こうした仕事もやはり武術に長けた人物が適任ということで、糸洲先生などが選ばれたのだろう。
糸洲先生は実子が夭折して、弟から養子を迎えたが、この養子は離島に住んでいたそうで、生活は夫婦で賄わなければならなかった。年金などもない時代から、廃藩置県後は墓守が空手家の再就職先の一つだったわけである。
出典:
「空手と墓守」(アメブロ、2017年1月27日)。