御後絵に描かれた国王衣装の考察
前回の記事で琉球国王の肖像画「御後絵」に描かれた国王の衣装は明代と清代では異なると紹介した。そして見つかった御後絵のうち、尚敬王と尚育王の衣装は清代の様式、不明の2名は明代の様式だと述べた。
なぜこうした「分化」が生じたのかというと、異民族王朝である清は明以前の伝統的な中国衣装「漢服」を廃止して、満州族の衣装を採用し、琉球など朝貢国にはその服制を強制しなかったので、琉球では独自に国王の冠や服を作るようになったのである。
それで、琉球の国王衣装は清代になっても基本的に明代の服制を踏襲しつつ、独自に「琉様化」していった。7旒皮弁冠が12旒皮弁冠に、無文赤地の円領衣(丸首タイプ)が有文赤地の方領衣(V首タイプ)へと変化した。
しかし、明代の国王衣装も明の服制と比較すると、いろいろと独自のアレンジがされている。この記事では少しその点を考察してみたい。
中国の服制は基本的に日本よりも複雑で、また時代によっても異なる。そのうち、朝貢国に下賜した3点を紹介する。
「冕服」は冕冠と袞服のことで、もっとも格式の高い礼服である。歴史的には祭祀服にあたり宮廷では着用しなかったが、王朝によってその運用は異なる。
皮弁服は宮廷で着用する朝服の一種で、明代では重要な儀式や外国使節との謁見の際に着用された。日本の束帯に相当する。
常服は名前の通り、宮廷で日常着用する衣装である。胸と背に花様(補子)というゼッケンが付く。皇帝の常服は、冠は翼善冠というウサギの耳のような飾りが冠上部から突き出たタイプで、上衣も龍の刺繍を施した有文黄地で、臣下のそれとは異なる。
さて、上の明の服制を念頭に置きながら、御後絵に描かれた国王の衣装を見てみよう。
前回、筆者は上の不明1に描かれた国王は、タイル(敷瓦)の形状から第4代尚清王か第6代尚永王ではないかと推測したが、どうやら尚清王のようだとの報道があった。「尚清様」と書かれた墨書の資料があるらしい。
とすると、正真正銘の明代の衣装なわけだが、上の明の服制に照らすと、冠は皮弁冠、上衣は常服の円領衣という「混ぜた着方」をしているのがわかる。さらに、本来は胸に花様が付いていないとおかしいのだが、御後絵を見る限り、花様は外されている。
この皮弁服と常服を混合した着方は初代尚円王から第8代尚豊王までの御後絵で一貫している。
明の嘉靖帝から尚清王へ下賜した冠服のリストを記載した勅諭が『歴代法案』に残っているが、それを読むと、常服と皮弁服の2種類が贈られている。
皮弁服の上衣は「大紅素皮弁服」というもので、無文赤地の方領衣で、円領(丸首タイプ)ではない。「素」は文様がないという意味である。したがって、本来ならば尚清王の御後絵は、皮弁冠に大紅素皮弁服というV首タイプの衣装でなければおかしい。
しかし、実際に着ているのは円領衣で、勅諭を見ると、常服の「大紅織金胸背麒麟円領」がそれに相当する。「織金」は日本の金襴に相当する金糸や金箔を縫い込んだ布のことで、円領衣に麒麟の文様の金襴の花様が付いていた。しかし、この花様は御後絵には見当たらない。
実は「大紅織金胸背麒麟円領」は、豊臣秀吉にも同じものが贈られていて、実物が現存している。
この衣装は羅の単で、裏地のない夏用衣装である。つまり、秀吉と琉球国王には夏用の常服を下賜していたわけである。
ところで、明に朝貢して日明貿易を行った足利義満は、「日本国王」に冊封された。『明史』によると、義満は冕服を下賜されたらしい。実物やそれを描いた肖像画が現存していないので事実か確認できないが、もし事実だとすると、秀吉や琉球国王より高待遇だったと言える。
義満は倭寇の取り締まりを要請されて、それを行ったので、倭寇に悩まされていた明は喜んで破格の待遇をしたのかもしれない。
さて、御後絵を見るかぎり、尚貞王以降は円領から方領へ上衣が変化しているので、本来の皮弁服の構成に近い形となっている。
もっとも生地は清の皇帝から下賜された蟒緞(もうどん)の反物を使って仕立てたので、蟒(もう)という龍に似た動物が織り込まれた豪華な衣装になっている。見た目は、明の皮弁服よりも派手になったといえる。
花様の問題は、あるいは退色して見えにくくなっている可能性もあるので、今後調査が進めば明らかになるであろう。