教育唐手と軍事訓練
前回の記事で述べたように、沖縄県師範学校での唐手の授業は、屋部憲通がカリキュラムを考案し、教授でも指導的役割を演じた。糸洲安恒は、唐手嘱託として、その様子を見守っていた。これについて、儀間真謹が少し具体的に語っているので、その箇所を引用しよう。
上記引用文の糸洲先生や屋部先生の生没年には誤りがあるが、出版当時(1986)の知識なので仕方がないとして、師範学校の実際の稽古風景を述べた箇所は、当事者の証言なので貴重である。カリキュラムの作成だけでなく、実際の指導も屋部先生が行い、糸洲先生はそれをただ黙って見ているだけであった。
儀間氏より先輩の遠山寛賢のナイハンチが屋部のナイハンチであるのを見ても、師範学校で唐手を教え始めた当初から、糸洲先生は一歩引いて、屋部先生に指導を任せていたのであろう。
さて、屋部先生は旧制中学を中退して、陸軍教導団に入団して軍人になり日清戦争で活躍した。除隊後は兵式体操並びに体育を教える教官として、沖縄県師範学校に赴任した。当時、旧制中学や師範学校では軍事訓練が行われており、除隊後の下士官がいわば「天下り」として各学校に派遣されて再就職していた。兵式体操(のちの教練)というと現代のラジオ体操のようなものをイメージするかもしれないが、どちらかというと軍事訓練に近いものである。それゆえ銃の使い方なども教えていた。
さて、そういうわけであるから、唐手の授業も軍事訓練と平行して行われた。そして、カリキュラムも屋部先生が陸軍教導団で学んだやり方を取り入れて作ったのである。
おそらく現代の空手の稽古でも用いられている掛け声がはじめて導入されたのも屋部先生や花城先生が最初だったのではあるまいか。その場基本や移動基本、あるいは型の稽古で1,2,3,4……といった掛け声は軍隊由来のものだったのではないであろうか。
ちなみに、上原先生は型の掛け声はハイ、ハイ、ハイと言っていた。
これは沖縄古来のものか、それとも近代になって導入されたものか。これについてはまた別の機会に考察しよう。