松村宗務とナビータンメー
昨年、アメブロのほうで松村宗務について記事を書いた。それと関連して、最近、この宗務とナビータンメーが同一人物かという質問を受けた。少なくとも筆者が知る限り、その可能性はないが、その根拠としてアメブロの記事を下に加筆して紹介しておく。
明治31(1898)年の琉球新報のある記事に、以下の文章がある。
上記によると、独立自由党の松村宗務が酒に酔って辻から首里へ人力車で帰る途中、大声で歌っているのを巡査に咎められたが、反抗したため数ヶ所傷を負い、さらに10銭の科料に処せられたというものである。
この記事で気になるのは独立自由党の松村宗務という箇所である。井上秀雄「空手の起源と発達 ―拳聖松村翁の祖先についてー(下)」(1960)に以下の一文がある(注)。
この2つの記事を照らし合わせてみると、どうやら松村宗務は自由党タンメーのことのようである。独立自由党という政党を名乗っていたとのことだが、その政策は不明である。
井上氏の記事では松村先生の長男が松村宗務で、その子がナビータンメーだったと読める。が、松林流の長嶺将真が松村先生の門中(武氏)の宗浜宗徳に取材して書き留めた系図が遺稿ノート(ドイツのアンドレアス・クヴァスト先生がコピーを所蔵)に記載されている。
これによると、ナビータンメーは松村宗棍の孫ではなく、兄(次兄)の息子、すなわち甥に相当する。そしてその下に祖堅先生の名がある。では、松村宗務は系図のどこに来るのであろか。長嶺先生は別の系図も書き留めている。
この系図によると「自由徒タンメー」の長男は亀という童名になっている。また、ウトという長女もいた。
するとナビータンメーは自由党タンメーこと松村宗務の息子ではないことになる。ナビーというのは漢字で書くと、鍋である。これは童名でおそらく本名は「松村宗某」だったのであろう。ただ昔の沖縄では、普段は童名で呼んで下の名(名乗)を呼ぶことは滅多になかったので、祖堅先生は知らなかったのであろう。
ちなみに、タンメーは翁の意味である。上の系図をまとめると、以下のようになる。
祖堅先生は松村姓でないことからもわかるように、ナビータンメーの子ではなく甥にあたる。
長嶺先生は松村宗務の生年は1858年と書き留めている。松村宗棍の生年は諸説があるが、概ね1800年代であり、50歳以上離れていることから、宗務は息子ではなく孫であろう。1858年生まれなら、上記の事件は松村宗務40歳の時の出来事になる。
なお長嶺先生の遺稿によると、ナビータンメーは松村宗務より3歳ほど年上だったとのことで、そうだとすると生年は1855年頃となる。この場合も年齢差から実際は松村先生の兄の孫だった可能性がある。若い頃に久米島に移住して易をやったりして暮らしていたが、老年になって西原に移住して農場の番人をしていたとのことである。
注 井上秀雄「空手の起源と発達 ―拳聖松村翁の祖先についてー(下)」『沖縄タイムス』、1960年7月18日。
出典:
「松村宗務」(アメブロ、2022年8月27日)。