見出し画像

屋部のナイハンチ

2014年に、以下の写真をFacebookではじめて紹介した。

これは屋部憲通が指導する沖縄県師範学校の生徒によるナイハンチの写真である。昭和7年(1932)に撮影されたもので、屋部先生のお孫さんの屋部憲次郎氏からいただいた写真集に載っていた。屋部先生と本部朝基は親友同士で、筆者はお話を伺おうと2007年に屋部宅を訪問したことがあった。

屋部憲次郎氏

さて、おそらく「屋部のナイハンチ」の写真を、このとき初めて見た人は多かったのだろう。中にはどう評価していいか困惑したような反応もあった。特に立ち方が「糸洲のナイハンチ」と異なっている点である。

知花朝信のナイハンチ

糸洲のナイハンチは上の知花先生の動画にあるように、膝を内側に締め付け、つま先もやや内側に向ける「サンチン立ち」のような立ち方をする。ところが、屋部先生のナイハンチ立ちは、膝を大きく開きつま先も外側に向けている。まったく正反対の立ち方なのである。

糸洲のナイハンチ立ちこそ、正統な首里手のナイハンチのそれだと思っていた人たちにとっては困惑する立ち方で、「四股立ち?」という反応もあった。これが屋部先生でなければ、一種の異端や亜種と見なして無視する人もいたかもしれない。しかし、屋部先生は糸洲先生の高弟で、しばしば「筆頭弟子」と目される人物であるから、上の写真は看過できない。

立ち方が異なるのは、糸洲先生がナイハンチを改変したからで、屋部先生の立ち方は松村のナイハンチの立ち方なのである。このことについては、本部朝基が『私の唐手術』(1932)で述べているが、おそらく本部の証言を信じかねる人も多かったと思う。それが事実であったことを、この屋部のナイハンチの写真は明確に証明している。

一つ不思議なことがある。屋部先生は、沖縄県師範学校でそばに糸洲先生がいるにも関わらず、糸洲のナイハンチを教えず自分のナイハンチを教えた点である。糸洲先生は気分を害されなかったのであろうか。屋部のナイハンチは松村のナイハンチに近いだろうから(そのままでないにしても)、糸洲先生としても承諾しなければならなかったということであろうか。

ちなみに、本部朝基は、自分が唐手を習い始めた頃は、ナイハンチは平手(開手)だったと述べているから、屋部のナイハンチも松村のナイハンチそのままではない可能性がある。握拳にしているところは糸洲先生の改変を受け入れたのかもしれない。そういう意味では、屋部のナイハンチも松村と糸洲の混合であるから、糸洲先生も黙認できたということであろうか。

出典:
「屋部のナイハンチ」(アメブロ、2019年4月28日)



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?