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昭和15年の本部朝基後援会

昭和15年(1940)8月、東京で本部朝基翁後援会が結成された。下の琉球新報の記事はその後援会の結成を報じたものである。

『琉球新報』昭和15年8月17日。

全文はリンク先に掲載しているので、そちらをご覧頂きたい。この後援会は小西康裕先生が中心となって結成されたもので、発起人にはボクサーの堀口恒男、すなわち「ピストン堀口」も名を連ねている。

この後援会の目的は、記事にあるように、本部流の普及向上であったが、より直接的には、本部朝基に対する経済的な支援であった。実はこのときの支援金を包んだ祝儀袋が現存していて、宗家(本部朝正)が大切に保管している。

本部朝基は、昭和11年(1936)7月、当初1ヶ月の滞在予定で沖縄に帰郷したが、その後滞在を延長し、空手大家の座談会や自身の独占座談会に出席した。翌年にはいまの国際通り沿いに「本部朝基唐手研究所」を開設したが、経営がうまく行かず1年も経たないうちに――おそらく数ヶ月で――閉鎖した。

その後、家族が住む大阪に戻り、しばらくして再度東京の牛込柳町に道場を開くが、以前のように生徒が集まらず経済的に苦しかった。東京と大阪を行ったり来たりする日々が続いた。その様子を見かねて小西先生たちが後援会を立ち上げて支援に乗り出したわけである。

しかし、せっかくの後援会であったが、戦争も近づいてきたせいもあってか道場経営は依然として苦しく、経済的には焼け石に水であった。結局、本部朝基は昭和16年(1941)秋に東京の道場を閉鎖し、大阪に戻った。

ちなみに、記事中に「本部流実戦護身術」とあるが、これは文献に現れる本部流の名称の初出である。しかし、弟子の丸川謙ニ氏によると、それ以前から本部流と呼称していたそうである。

出典:
「本部町後援会:(アメブロ、2021年10月9日)。

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