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本部朝基の葬儀

昨年末(注:2015)、本部朝勇の孫の本部澄子さんの一周忌に宗家(本部朝正)とともに出席してきた。澄子さんは朝勇次男・本部朝茂の次女である。沖縄の門中(一族)には、門中の面倒をよく見てくれる年配の女性が一人や二人いるものだが、澄子さんもそういう方であった。また戦前から本部御殿の清明祭などの行事に出席していたので、戦前の本部御殿の歴史や親族についても大変詳しかった。

以下は、澄子さんから平成18(2006)年に伺った本部朝基の葬儀のエピソードである。

その前に本部朝基の晩年について述べておきたい。これについて、戦後、沖縄の空手界では様々なデマが流されてきた。宗家が母・ナビ(朝基妻)から聞いた話では、朝基の晩年の身の廻りの世話をしてくれていたのは、朝勇三男の朝俊だったそうである。朝勇先生には3男1女の子供たちがいたが、長男・朝明と次男・朝茂は内地に出ていた。

朝俊氏も大阪に来ていて、宗家が幼少の頃は近所(貝塚市)に住んでいた。宗家は朝俊氏のことを「タルーおじさん」と呼んでいた。おそらく、童名(幼名)が樽(タルー、日本語の太郎の方言)だったのであろう。しかし、朝俊氏は戦前沖縄に戻ったそうである。それで朝俊一家が晩年の朝基の世話を見てくれていた。

本部朝基の死因についてもいろいろ説が流れているが、親戚の話では胃の病気(おそらく胃潰瘍)を煩っていて、その病状が悪化して昭和19(1944)年に亡くなったそうである。

話を元に戻すと、この時の本部朝基の葬儀代を工面してくれたのが、当時まだ存命だった朝勇妻の本部ムタシであった。ムタシさんは五大名門の一つ、馬氏小禄殿内の出身だった。琉球士族の多くは廃藩後没落したが、小禄殿内は昭和初期になっても没落しておらず裕福だったそうである。それでムタシさんが義弟に恥をかかせてはならないと、実家の小禄殿内からお金を借りてきて盛大な葬儀を催してくれた。大変しっかりした面倒見のよい女性だったようである。

この時の葬儀は多数の参列者が出席して、自動車の霊柩車も手配された。霊柩車は当時の沖縄ではまだ珍しかったので、これには参列者も驚いたそうである。葬儀のあと、荼毘にふされて首里と那覇の間(真嘉比あたりらしい)にあった本部御殿の脇墓に骨壺が収められた。

この脇墓は本部御殿の次男以下の親族が入る御墓で、脇墓といっても御殿の御墓であるから、立派な亀甲墓で敷地も100坪ほどあったそうである。ここに澄子さん、澄子さんの姉の夫、それから朝勇先生の長女・金城のアヤー(※)等が骨壺を運んで納骨した。このとき、骨壺を運んだ澄子さんの姉の夫が「重たい、重たい、サールータンメー(朝基)はお骨まで重たい」と冗談を言っていたそうである。

以上が本部朝基の晩年と葬儀についての真相である。沖縄には本部朝基の晩年や葬儀は某空手家が世話をしたとか、様々な説が流れているがそうではない。朝勇先生についても、葬儀は宮城長順先生が世話をしたとか、親族が聞くと首をかしげるような話が流されている。どうも朝基や朝勇の子孫は皆戦争で亡くなったと沖縄では信じられていて、それで様々なデマが流されたようである。

これらについても念のため澄子さんに確認したが、話を聞いた途端むっとして「そんなことはあり得ません」と否定していた。

※アヤーは士族言葉でお母さんやおばさんの意味。

出典:
「本部朝基の葬儀」(アメブロ、2016年3月5日)。

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