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パッサイの伝系

パッサイは首里手と泊手にある型である。漢字表記は伝わっていないが、以前紹介したように、福建語や泉州語で獅子舞のことを拍獅といい、これを発音すると福州語で「pa sai」、泉州語で「phah sai」になるという説がある。

パッサイと獅子舞とが直接関係していたのかは不明である。また、福建省に「獅子拳」のようなものがあり琉球人が学び得たのかも不明だが、パッサイの起源を探るうえで何らかの手がかりが得られるかもしれない。

さて、上でパッサイは首里手と泊手にある型と述べたが、パッサイは先に中国から首里に伝わったのであろうか、それとも泊が先だったのであろうか。

首里のパッサイには、パッサイ大(糸洲のパッサイ)や多和田のパッサイがある。パッサイ大は糸洲先生が古流を改変したものと考えられ、横受けを多用するの特徴的である。

多和田のパッサイは、松村宗棍の弟子であった多和田真睦から知花朝信に伝えられた型で、それゆえ最近では松村のパッサイとも呼ばれる。ただ多和田真睦は松村先生の弟子ではあるが、果たしてこのパッサイは松村先生のパッサイであろうか? 昔は複数の先生から型を習うのは普通であったから、多和田が別の先生からパッサイを学んだ可能性も否定できない。ちなみに知花先生自身はパッサイ大と呼んでいた。上げ受けや裏打ちを多用するのが特徴的である。

次に、泊のパッサイには親泊のパッサイや伊波のパッサイ(松林流)がある。糸東流のトマリバッサイは、戦後糸東流の空手家が沖縄の長嶺将真から学んだものであろうと以前述べた。長嶺先生はこのパッサイを伊波興達から教わったという。

上は大城朝恕から金城裕に伝えられた親泊のパッサイ、下は松林流のパッサイである。二つの型は演武線は異なるが、掌を上に向けた、いわゆる「背面貫手」を使用する点は共通している。

では、パッサイは首里がより古いのか、それとも泊がより古いのか。実はこれについて、安里安恒が興味深いことを語っている。

唐手の種類
数え挙ぐれば数十種もあるが、ことごとく覚えらるるものではない。またそうたくさん覚ゆる必要もないのだ。その中より、5、6種選択してよく練習しさえすればそれで充分だ。体を固める向きには「ナイハンチ」と「セーサン」がよかろう。棒を受けるものは「パッサイ」に限る。早さを取るには「クンサンクン」がよいので、上段中段下段の区別を判然したのは「ジッテ」である。而(しこう)して、実用向きには「セーサン」と泊の「パッサイ」がよほど利くようにある。

『琉球新報』1914年1月18日

安里は上記でナイハンチ、セーサン、パッサイ、クーサンクー、ジッテの型について語っているが、とくにパッサイについて、「泊の」と地名を冠して述べている点が注目される。

これは、首里士族である安里から見て、パッサイは泊の型という認識があったからではないだろうか。とすると、パッサイは中国から泊に伝わり、のちには首里にも伝わってパッサイの各バリエーションが生またと推測するのが妥当だと思われる。

首里のパッサイには、本部朝勇の長男の本部朝明が伝えた「本部御殿のパッサイ」もある。このパッサイは演武線は他の首里のパッサイに似ているが、背面貫手を使用する点では泊のパッサイに似ている。それゆえ、糸洲先生が改変する以前の古流首里手のパッサイの一つであろう。

さて、沖縄にパッサイの漢字表記が伝わらなかった点を考えると、私見では、おそらく沖縄に漂着した中国人で、かつ民間人で中国拳法には長けていたが漢字の読み書きは苦手だった人が、世話をしてもらったお礼に泊士族に伝授したのがパッサイだったのではないだろうか。

漢字表記の有無については、「空手の型に漢字表記はあったのか」の記事を参照されたい。当時、中国の識字率、とりわけ民間人の識字率は著しく低かったので、中国武術家が型(套路)の漢字を知らなかったとしても不思議ではないからである。

ところで、糸洲先生は首里の誰かからパッサイを学んだのであろうか。糸洲先生は泊の城間からも学んでいたと言われているし、そのほかにも交流のあった泊の空手家はいたと思う。そういう意味では、糸洲先生が学んだオリジナルのパッサイが首里のパッサイだったかは断定はできない。

出典:
「パッサイの伝系」(アメブロ、2019年3月31日)。note移行に際して加筆。

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