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武術に優れた本部町の人々

琉球新報の「スポーツ風土記 本部町:各界に異彩放つ 海で鍛えた反骨精神」(昭和37年4月30日)という記事に以下の一節がある。

空手の達人を生む
"ブ・ムトバー"という呼び名はこういった競技好きの本部人の気性を一語で示している。ブ・ムトバーとは武に優る本部人という意味で、いまから約四百五十年ほど前、第二尚氏の尚真王がその晩年地方の各間切を廃止して首里に統合したとき、本部御殿の要人として首里に登った本部朝昭、朝基の兄弟が空手の達人として世に聞こえた武者だった。とくに弟の朝基は"ムトブザール"といわれるほどの身軽で、兄朝昭に劣るとも劣らない豪者だった。
それ以来人々は本部人の武をたたえて"武ムトバー"の称号をおくった、といわれている。彼の血を受けた本部人のスポーツ好きはいまも劣えるところを知らない。

記事の内容は本部町出身者には各界で成功した者が多い。それは本部人は勝負好きで競争することを恐れない気質があるからだ。スポーツ界でも活躍する人は多い。

この気質はどこから来るのだろうか。それは「ブ・ムトバー」、すなわち「武の本部人」と言われるように、本部町の前身、本部間切の人々は昔から武術に優れていたからだ。本部朝昭、朝基の兄弟は特に空手の達人として有名だ、というものである。

朝昭は朝勇の誤記だが、二人は450年前の人物ではない。そもそも尚真王(在位:1477–1527)の時代にはまだ本部間切は存在しなかった。本部間切は、本部御殿初代の本部王子朝平のために、父・尚質王が1666年に今帰仁間切を分割して最初伊野波間切として、翌年本部間切に改称したのが始まりである。

だから上の歴史認識はいろいろ時系列ではおかしいが、いずれにしろ、本部町の人々は「武・本部人」として武術に優れていたと評判だったというものである。

ちなみに朝勇、朝基兄弟は本部町出身ではなく首里出身であり、初代・本部王子朝平も首里の生まれである。本部町(間切)は本部御殿の領地ではあったが、普段は按司掟(あじうっち)や地頭代と呼ばれる役人に管理を任せていた。

しかし、首里の本部御殿で奉公していた仲里兄弟が郷里に戻ってパッサイを踊る「亀の甲踊り」という唐手踊りを伝えていまに現存するように、本部御殿の歴代の人々が武術に優れていたからこそ、御殿奉公を通じて「ブ・ムトバー」という気質が伝播して生まれたのであろう。

上地完文も本部町出身だったから、「ブ・ムトバー」も嘘ではないようである。




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