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頑固党の武術:非「学校空手」の系譜

湖城徳昌、以正、以恭」の記事で紹介した「脱清人明細表」(1884年、明治17)には、ほかにも空手の歴史に関係する人物が記載されている。

族籍 旧官職業 姓名 年齢
首里桃原村五十五番地士族 按司奉行 浦添朝忠 三十七年
首里儀保村十三番地士族旧親方長男 里主小姓 金武良常 三十九年

「脱清人明細表」

浦添朝忠は浦添御殿の当主で、のちに私学校を設立し、糸洲安恒に先立って空手の集団教育を行った人物である。以前、「浦添朝忠 ―糸洲安恒の先駆者―」の記事で詳しく紹介したが、そのときは生年は1848年と記した。これは、浦添市が配布している「浦添御殿の墓」のパンフレットの記載に従ったものだった。しかし、1884年(明治17)時点で満37歳だとすると、生年は1847年になる。

金武良常は、琉球古典音楽家・金武良仁(1873-1936)の父である。良仁は本部朝勇と同時期に旅券(パスポート)を取得し、一緒に中国旅行に出かけたと考えられる人物である。また、1936年(昭和11)の本部朝基の独占座談会では、松茂良興作と本部朝基の入り組の逸話を息子の良章が父から聞いた話として紹介していた。上記によると、金武良常の生年は1845年となる。

左端から:金武親雲上(良常)、新崎親雲上、池城親方(安規)、具志堅親雲上、山城山戸、明治4年。出典:『沖縄県公文書館だより ARCHIVES(アーカイブズ)』第16号、沖縄県公文書館、2001年。

さて、金武良章『御冠船夜話』(1983)によると、金武良仁の最初の妻は、浦添御殿の娘だったという。

父がはじめにめとった、わたしにとっての義理の母は、浦添御殿の息女です。この義理の母が亡くなったあと、わたしの生みの母が父に嫁いで、わたしを生んだのですから、わたしは義理の母を知らないのですが、天女のように美しい方だったという評判は、のちのちまで残っていました。
旧暦の元日に、実家である浦添御殿に年頭のあいさつにいく際など、道ですれ違う人たちは、足をとめて振り返るほどだったとか(19頁)。

上記の浦添御殿とは、浦添朝忠のことである。つまり、ともに脱清人であった浦添朝忠と金武良常は亡命生活を通じて親しくなり、自分たちの子供を互いに結婚させたか、あるいはもともと二人は親密な関係だったのでともに脱清して、帰国後は互いの子供を結婚させたかのいずれかであろう。

さて、本部朝勇の中国旅行に同行したと考えられる人物の関係がこれで一層明らかとなった。

湖城以恭は金武良仁の父と福州でともに亡命生活をおくっていた。また、添石良行については、『沖縄空手古武道事典』(2008)で以下のように述べられている。

馬氏10世添石親方良行は武術家であったが、政治的には保守に徹し、琉球王府の政治体制を維持していこうとする頑固党と一緒になって活動した(449頁)。

添石家は金武家と同じ馬氏小禄殿内の分家で、両家は墓が並んで造られるほど親しい間柄であったが、政治的にも頑固党で一緒に活動していたのであろう。そして、本部朝勇の妻は、本家の馬氏小禄殿内の娘であった。

つまり、本部朝勇、金武良仁、添石良行、湖城以恭は、互いに親戚関係であったり頑固党として本人もしくは親がともに行動した間柄だったのである。また、この4人のうち、3人が家伝の武術を継承する家柄に生まれた点も共通している。それぞれ本部御殿手、添石流棒術、湖城流である。

学校空手の担い手は、学校では日本語(標準語)での教育が求められていたから、基本的には開化党の人間でないと務まらない。もちろん屋部憲通と本部朝勇は友人同士であったように互いに交流がなかったわけではないが、政治的背景は異にしていたことには留意する必要がある。

そして、学校空手がその後の主流となり、頑固党の武術は消滅するか、かろうじてほそぼそと継承されていった。頑固党は御殿・殿内といった王族や上級士族、また湖城家のような久米士族の名門が活動の中心であったから、その武術もユニークなものであった。特別な武器術があったり取手があったりと、突き蹴りだけの武術ではなかった。

空手の歴史を紹介する際、どうしても学校空手の紹介が中心になりがちである。これは学校の運動会で空手が演武されたとか、師範学校で空手の講習会が開かれたとか、そうした行事が新聞記事として残るからである。しかし、頑固党の武術の系譜も考察することは同じくらい重要であろう。


出典:
「頑固党の武術」(アメブロ、2021年11月13日)

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