見つかった琉球国王の肖像画「御後絵」とその所有権
御後絵(おごえ、沖:ウグイ)は琉球国王の肖像画のことである。第二尚氏王統の歴代国王の御後絵は、首里城そばの王家菩提寺・円覚寺(臨済宗)に安置されていた。しかし、明治年間に旧王家・尚侯爵家の沖縄本邸である中城御殿(ナカグスクウドゥン)に移された。19名の歴代国王のうち、短期間で事実上廃位された第2代尚宣威王と最後の尚泰王を除く17名の御後絵があったようである。
大正14年(1925)、中城御殿を訪れて御後絵を調査した鎌倉芳太郎(1898 - 1989)はそのうち10点を撮影した。これが今日伝わる御後絵の白黒写真である。
御後絵はその後も中城御殿に保管されていたが、戦後、行方不明となった。米兵により国外へ持ち出されたと考えられている。2000年、沖縄サミットを機に、米連邦捜査局(FBI)の盗難美術品のリストに登録されたが、これまで見つからなかった。それが昨日、御後絵6点が発見され返還されたというニュースが報道され、大変驚いた。このうち3点は1枚の絵を分割したもので、事実上は4点である。
その内訳は、第13代尚敬王と第18代尚育王、そして不明の2点である。
一見すると、絵の一部が剥離していて保存状態はあまりよくない。特に尚育王の右目(むかって左)は下手に補筆したようで左右の目の高さがずれている。それでも、全体としては白黒写真でしか見たことがなかった御後絵の色彩がわかって大変感動した。捜査返還に尽力されたアメリカ政府並びに関係部署の方々には感謝申し上げたい。
問題は不明とされる残り4点(事実上2点)の御後絵である。不明というのは、御後絵17点のうち、鎌倉によって撮影されなかった7点に含まれているからであろう。
実は御後絵は明代と清代の2種類に大きく分かれる。初代尚円王から9代尚賢王までが明代、10代尚質王から18代尚育王までが清代である。
上の2枚で比較すると、まず国王が被っている冠は玉冠、中国の皮弁冠という冠だが、宝玉を縫い付けている線「旒」の数が違う。明代は7旒、清代は12旒である。清代は当初は7旒だったが尚穆王在位の18世紀半ばからは12旒に改められた。
次に衣装は、明代が無文赤地の円領衣(丸首タイプ)、清代が有文赤地の方領衣(V首タイプ)である。
調度品では、明代には国王の背後に日月を描いた衝立があるが、清代のそれにはない。
こうした観点から比較すると、不明の御後絵2点は明代に属することがわかる。以下に明代の国王の御後絵の存否と、鎌倉によって撮影された写真の存否を列挙する。
代・国王名 |中城御殿にあったもの|鎌倉によって撮影されたもの
初代・尚円王 |◯| |◯|
2代・尚宣威王|✕| |✕|
3代・尚真王 |◯| |◯|
4代・尚清王 |◯| |✕|
5代・尚元王 |◯| |◯|
6代・尚永王 |◯| |✕|
7代・尚寧王 |◯| |◯|
8代・尚豊王 |◯| |◯|
9代・尚賢王 |◯| |✕|
10代・尚質王|◯| |✕|
尚質王は冊封を受けたのは清代だが、以下に取り上げるので挙げておく。
まず御後絵1について。筆者はこの絵に描かれた床のタイル(敷瓦)に注目したい。ほかの御後絵と比較すると、敷き方が正方形で、ほかは大半が斜方形(菱形)なのである。正方形は第5代尚元王と第7代尚寧王だけである。
とすると、不明1はその前後の第4代尚清王か第6代尚永王の可能性が高いと思われる。
問題は不明2である。3分割されて右上部分が大きく欠けている。筆者はかぶっている冠に注目した。
かすれてよく見えないが、皮弁冠ではなく烏紗帽(うさぼう)をかぶっているのである。
烏紗帽もしくは烏帽(うぼう)も中国の冠の一種で明代まで用いられた。冠後部から左右に羽のような飾りが2つ出ているタイプである。日本では明から「冊封」された際に授与されて豊臣秀吉がかぶっている「唐冠」がそれである。
文禄の役で日本が「降伏」したと誤認した明の使者が秀吉を「日本国王」に冊封するつもりでやってきたと知って秀吉は激怒したが、烏紗帽は気に入ってよくかぶったので、秀吉の肖像画には多く描かれている。
琉球国王は皮弁冠のほかに烏紗帽も所持していて、冊封前にはかぶっていたという。その実物も戦前まで中城御殿にあった。下はそのとき撮影された写真である。
さて、歴代国王のうち、一人だけ烏紗帽をかぶっている不明2の御後絵の国王は誰だったのであろうか。
全体の絵の特徴を見ると、第8代尚豊王の御後絵に似ているので、第9代尚賢王か第10代尚質王の可能性が高いように思う。そのうち、筆者は尚質王の御後絵ではないかと考えている。
実は尚質王の冊封の直前の1660年に首里城が炎上しているのである。正史『球陽』には、「燒盡王城宮殿。王移居大美殿(首里城を焼き尽くす。国王、大美御殿に移り住む)」とあり、おそらくこのとき皮弁冠も焼失したと思われる。
そして、首里城再建もままならない1663年に、突然何の知らせもないまま冊封使(張学礼)一行が琉球にやってきて、王府を驚かせたのである。本来ならば琉球側から冊封の要請をしてから冊封使がやってくるのだが、清は建国間もない頃でそうした手続きを知らなかったのかもしれない。
さて、まったく準備していなかった王府は慌てふためき、それでもなんとか大美御殿で冊封式を挙行したが、おそらく皮弁冠を用意できず烏紗帽をかぶっておこなれたのではあるまいか。
皮弁冠は明の冠で、清の冠ではないので、張学礼は下賜のために持参しなかったはずである。したがって、その後用いられた7旒と12旒の皮弁冠も琉球側の自作である。実は12旒というのは明の皇帝しか許されない数で、琉球国王も秀吉も7旒皮弁冠しか下賜されていない。しかし、清では明の制度は関係なかったので、琉球は12旒の皮弁冠を自作したのである。
不明2を見ると、ほかにも石帯をしていないなど、衣装が不足していた様子がうかがえる。尚質王の次の尚貞王からは衣装も自作して方領衣になるなど、全体が「琉様化」するが、尚質王のときはそうした余裕もなく、とりあえず明代の衣装をいそいで制作して間に合わせたのであろう。
尚質王は本部御殿の直接のご先祖様でもあるので、もし不明2が同王の御後絵なら喜ばしいかぎりである。
最後に返還された御後絵の所有権は誰にあるのだろうか。昨日の玉城沖縄県知事の記者会見で所有権を確認する必要があると語られていた。海外ではよくナチス・ドイツによる略奪品は元の所有者の遺族に返還されている。こうした例に倣うならば、まず尚家に返還されるのが筋であろう。そのうえで、沖縄県は寄託等をお願いするのが好ましいと考える。