無名の空手家たち
昨年(2015)、親戚の法事で会った方からこんな話を聞いた。
本部家で武術をしていたのは、本部朝基や朝勇だけではなかった。彼らはもちろん実力が傑出していて、弟子もいたから歴史に名前が残っているが、ほかにも本部家やその門中(一族)で武術をしていた人たちは当然いた。
上記の「本部の闘鶏小」と呼ばれた人物もそうした、一般には知られていないが当時はそれなりに強かった空手家である。
本部朝基には宗家(本部朝正)を含めて3人の息子がいたが、上の二人ももちろん空手は稽古していた。次兄の本部朝礎は本部朝基の師範代のようなこともやっていたようである。残念ながら二人とも戦争で亡くなったから今日知られていないが、生きていればそれなりに立派な空手家になっていたであろう。
戦前まで、沖縄の士族出身者の間では、まだ「空手は士族の嗜(たしな)み」のような気風が残っていて、有名無名を問わず空手を稽古していた人は結構いた。そうした人達の大半はもちろん歴史に名前は残っていない。
空手書を読んでいると、どうも著者は空手史に名前が残っている人だけが空手をしていたと思いこんでいるのではないかと思うことがある。
すべての琉球士族が空手をしていた、とは言わないが、少なくとも歴史に名前が残っている人達よりも多くの人が空手をしていたことは確かである。
たとえば、空手の伝系図のようなものを見ると、違和感を覚えることがある。各流派の開祖の多くが松村宗棍や糸洲安恒、松茂良興作、東恩納寛量といった著名空手家に習ったことになっているが果たしてそうであろうか。
「近所のおじさんに習った」、「兄の友人の某兄に習った」、「父や祖父からナイハンチを習った」等々。こうした例は多々あったはずである。
そして、大半はそうした人たちから習って、少しだけ糸洲先生や東恩納先生に型を見てもらって修正のアドバイスを受けたということはあったかもしれない。
しかし、伝系図には無名の人たちの名前は載っていないのである。問題はそうした無名の人たちから習った型を松村や松茂良に習ったことにしてしまって、いつのまにか彼らの名前を冠した型が増えてしまっていることである。
松村や松茂良は、日本武術でいえば、柳生宗矩や宮本武蔵のような人物である。彼らはひときわ有名だったが、江戸時代にはもっと無名の無数の武士達が剣術を稽古していた。
空手史研究においては、時にはそうした「松村の何々」や「松茂良の何々」といった型は史実と異なるのではないかと指摘せざるをえないことがある。なぜなら、それを指摘しないでいると、歴史研究が進まないことがあるからである。
逆に、それほど有名ではない人、あるいは当時は有名だったが今日では忘れ去られてしまった人の型でも、その特徴を見ると古流型と思われ、貴重な型だと思うものもある。歴史研究というのはそうした型の価値を見出して、明らかにしていくことでもある。
出典:
「無名の唐手家たち」(アメブロ、2016年5月7日)。加筆修正してnoteへ移行。