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取手と捕手

前回の記事で、唐手(空手)の起源に柔術説があるというのを紹介した。また、トリテという呼称はヤワラや柔術よりも歴史が古く、すでに慶長年間(1596-1615)には使われていたことも紹介した。これについての記述の出典はよく分からないが――『大和事始』には記載がない――、トリテがヤワラや柔術より歴史の古い呼称であることは、例えば室町時代の永禄年間(1558-1570)に書かれた楢村長教著『室町殿物語』に以下の記述があることからも確認することができる(注1)。

「爰(ここ)に高橋作右衛門光範といふ人あり。器量骨柄厳しく力あり、一心の至剛なる事、凡そ世に類なし。兵法は、我朝にある程の家々の奥義を傳へ、取手は竹内の極意を極め、此外十文字・長刀・鎌・琴柱(ことじ)など、家々の秘奥をかうぜり。」

現代語訳:
ここに高橋作右衛門光範という人物がいた。顔つきや体つきは厳めしく力持ちであり、精神が堅く強いことは、およそ世に類がないほどであった。武術は日本にある各種の流儀(家々)の奥義を修得し、また取手は竹内の極意を極め、このほか十文字(槍)、長刀、鎌、琴柱棒(刺股)など、各流儀の秘奥を講じていた。

上記の「竹内」というのは日本最古の柔術流派である竹内流(1532年成立)のことである。上記の記述で面白いのは「取手」がほかの武器術と並列されている点である。すでにトリテが武術として室町時代に一定の評価がなされていたことが窺える。

ただしここで注意すべき点がある。今日、竹内流では、トリテの漢字表記は、取手ではなく捕手を用いる。ただこうした「表記の揺れ」は古文書では珍しいことではない。実際、時代はやや下るが17世紀の竹内流の誓紙に「取手」の表記を使用していた例がある。

誓紙(写)

上の誓紙は、寛永8(1631)年4月12日、美作国(岡山県)津山藩主森忠政の嫡子忠広(1604 - 1633)が提出した誓紙の写しである。

一行目に「今度取手腰廻り令、見事成儀……」と、捕手ではなく取手と書いているのがわかる(注2)。

それゆえ、竹内流において取手と捕手の表記の揺れが16世紀からあった可能性がある。また、天流も天正9(1581)年の目録に取手の表記を用いていた。

これについては、また別の機会に紹介するが、いずれにしろ、沖縄で使われていた「取手」という言葉は本土では16~17世紀にはすでに使われていたということである。

注1 楢林長教著、黒川真道編ほか『室町殿物語、足利治乱記、異本小田原記』国史研究会、大正3年、155頁。
注2 今村嘉雄ほか編『日本武道大系』第6巻、同朋舎出版、1982年、8頁。なお、同書では、寛永を宝永と誤記している。

出典:
「取手と捕手」(アメブロ、2016年3月7日)。加筆修正の後、noteに移行。


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